*

親鸞始記を読んで

      2017/04/11


 親鸞始記―隠された真実を読み解くという本を読んでおりました。

 書いてある内容は少々刺激的でしたので、紹介しておきます。 ただ、少し哲学的で出離の要道を示すというのとは違い、親鸞聖人を純粋に研究したものととらえた方がよいかもしれません。 出家の動機を安城の御影から紐解いていきます。 実際は、読んでいただいた方がよいと思いますが、 聖人はこの絵の特徴は

  • 狸と伝わる敷皮の上に座している
  • 前に杖と草履と火桶が置いてある
  • 茜根裏(あかねうら)(赤色)の下着を内側に羽織っておられる

というものです。 これは写真を撮る場合ならば、その時近くにあるものが偶然映り込むということはあると思いますが、 こういう肖像画の場合は、これらは意図的に配置されたものだというのです。

 その意図とは何だったのかという話を正明伝という存覚上人の書かれた、親鸞聖人の一代記から紐解いて 行くわけです。 ここでは、これらは発心のきっかけになったものを表しているとしています。

 まず赤色の衣ですが、確かに安城の御影を見ると赤い衣が下に見えています。これについては親鸞聖人がまだ比叡山にいた頃、慈円と天皇の歌会の話が正明伝から考察してまいります。

 それは、親鸞聖人が自身の発心の動機について門弟に打ち明けられるところでの話であります。 その内容は、次のようです。

 後鳥羽院が歌会の題材に「恋」を選ばれて、慈円がそれを上手に歌ったところ、あまりに上手だったので 慈円は女犯の疑いがかけれました。慈円は、釈明として、自分はどのような場面も想像で歌を作ることが できると説明し、もう一つ、何か仏法者が絶対に行わないものを題材にして課題を出して欲しいとお願い します。すると後鳥羽院はそれでは「鷹羽雪」について歌を詠めと命じたのです。それについて、慈円は そつなく歌を詠んで返すのですが、その時の使者に親鸞聖人が選ばれたのです。そこで親鸞聖人は、慈円 の歌を後鳥羽院に届けて、慈円の疑いは晴れたのですが、その時、親鸞聖人は名前を後鳥羽院から尋ねら れ名前を名乗ると、猶父も師も歌の名手だから、さぞ上手に歌が詠めるであろう、詠んでみよと命じられ、 聖人は、即興で歌を詠まれました。それが見事だったため、後鳥羽院は褒美に檜皮色の小袖を与えたとい います。

 聖人はこの時、つくづく思ったことは、もし和歌がうまく詠めなかったら、師も猶父の名も汚すことにな った。その時に自害したら、今後は僧侶の道に外れてしまう。このまま慈円僧正の門下につらなるかぎ り、何度もこのような世俗の交わりに身を染めることになるだろう。これは遁世の因縁ではないだろうか。 と世俗にかかわる全てのことが急に厭わしく感じられて、六角堂に参るにいたったのです。 (正明伝の要約)

 この時の状況を歎徳文には、 「何ぞ浮生の交衆を貪りて、徒らに仮名の修学に疲れん」と言っているのです。

 ということで、この安城の御影の中の茜根裏(あかねうら)(赤色)の下着はこの時後鳥羽院から頂戴した 檜皮色の小袖を表すためで、この時の因縁を表したかったからだというのです。

 また、杖と草履と火桶、狸の敷皮は、百日の参籠を表していて、 杖と草履は、比叡山との往復に用いたもので、火桶と狸の敷皮は六角堂参籠中に用いたものであるわけです。

 このように親鸞聖人発心し法然上人のみもとに訪ねられる契機になった因縁深いものを自分の肖像画に 一緒に書かれたのだというのです。

 これはたいそう面白い考察で、確かにそうかもしれないと思いながらこの本を読んでいたのでありました。

 興味のある方は一度読まれると良いと思います。


 - 浄土真宗