浄土の慈悲とは、王様の菩提心のこと
2017/03/02
私はチベット仏教を勉強しています。(顕教のみで密教は概要のみの勉強です。)チベット仏教で菩提心について三つの差別を教えています。
- 羊飼いのような菩提心
- 王様のような菩提心
- 船頭のような菩提心
羊飼いのような菩提心というのは、すべての衆生が仏になるまで、自分は仏になるまいと誓って、衆生済度を先とする菩薩のことです。この羊飼いのような菩提心とは、観音菩薩や勢至菩薩のような方をさしており、阿弥陀仏も法蔵菩薩の時にこの羊飼いのような菩提心を起こして修行をなされましたが、ついに功徳(福智二資糧)が究竟して他の衆生が仏になる前に仏になったのです。
「若不生者 不取正覚」 四八願の中で有名なお言葉は、もし我々が仏にならなければ、自分も仏にならないと誓ったのと同じですね。
ところが、既に阿弥陀仏は仏になっているのです。これはどういう意味なのかというと、色々な解釈がありますね。
果後の方便といわれる場合と、これは、阿弥陀如来は久遠の昔に成仏されたが、仮に法蔵菩薩になり 発願修行されたのは、 衆生を救うためのお手まわしであるということです。
もう一つが、説明で出てくるもは、功徳が究竟して自身の意志とは別に仏になられたというものです。
私は、既に阿弥陀仏の誓願通りに仏になられているため、私たちは既に阿弥陀仏によって救われることが決定しているという考えもできるとは思いますね。つまり未来際まで正覚の一念に見通されて全ての衆生が救われることを見通されて仏になられたという考えです。
王様のような菩提心というのは、多くの衆生を救うには仏の力でないと救えないので、まず仏になることを目指す、そのような菩提心をいいます。
実は私たちは、この王様のような菩提心を起こすべきであると密教などでは教えます。いち早く仏になって、仏の力で衆生済度をする。それこそが私たちが目指すべき菩提心だと教えているのです。
船頭のような菩提心というのは、有縁の衆生を救いながら、自分も仏になろうとするものです。
これは、信心決定後の生活で自行化他のままが報恩行であり、それが船頭のような菩提心であります。
さて、歎異抄の聖道・浄土の慈悲について少し見てみましょう。実は、密教と浄土教の教義は大変似ているところがあります。
三密瑜伽などは、
諸仏三業荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ
の中にもあらわれており、大変、似た思想だと言えると思います。この浄土の慈悲も実はここでいう密教の教えに近いものなのです。
聖道の慈悲は、今生において慈悲を起こし、実践するわけです。その慈悲始終なしとは、智慧の裏付けないということを言っており、いわゆる凡夫レベルの慈悲を言ったものでしょう。これが、羊飼いの慈悲なのか、船頭の慈悲なのかはその人の慈悲の深さで決まるのでよくわかりませんが、多分船頭のような菩提心だと思われます。
浄土の慈悲は、まず自分が仏にならなければ、衆生を救うことができないと、浄土の往生して仏になることを目指すので、この三つの中では、王様のような菩提心を指していると言えます。