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孫悟空とお釈迦様の智慧比べ

      2017/02/20


皆さんは、孫悟空とお釈迦様の智慧比べの話しをご存じでしょうか。

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

結局、孫悟空は、仏様の手の平をでられなかったということですが、このような智慧比べを我々は、知識(仏教の先生)としないといけないと思います。

私はこれに似た体験があります。
以前、私は「色即是空、空即是色」の意味が分からず、悩んだことがありました。「色即是空」は、まあ、分かっても、「空即是色」はよく分からなかったのです。この当時は「即」を「イコール」のように考えていましたので、「色即是空も空即是色も同じ意味ではないか」と思えた訳です。[1]実際そのように理解される人も今は多いようです。言語学的には違いがないように思えますから。

私の先生は、この「色即是空、空即是色」を次ぎのようによく説明されました。

因縁仮和合だから、空であり、空も空なれば、真空に妙有あり、
また、その空は、色即是空だから、何にでもなれる、何にでもなって行く。
仏様は何にでもなって行くんだ。

私はこれがなかなか心から分かりませんでした。

もともと、仏教の教語は観成就のために教えられたものであるはず[2]教観一如とか教即観という、天台宗は教観二門を別立したのに対して、華厳宗では教観一致の立場を取り教のほかに観を立てなかった。で、このような世俗的なことを言っているものなのだろうかというのが私の疑問でした。この説明では観が成就、つまり観に結びつくように思えなかったのです。

私は、この疑問を解くために長らく考えました。また、『般若心経』の解説本をたくさん読みましたが、明快な答えは見つかりませんでした。「空即是色」については、色のまま空である、というような説明くらいでした。これもまた観の説明には不十分のような気がいたします。

そんな時に、岩波文庫の『金剛般若経・般若心経』の本を読むと、注釈に次ぎのような一節が紹介されていました。

色即是空と見て、大智を成じて生死に住せず、空即是色と見て、大悲を成じて涅槃に住せず。
『心経略疏』賢首大師

この言葉、色即是空、空即是色を観の立場で説明したものだと感じられました。「やはり観の立場で解釈できうるんだ」と確信を得られました。つまり考えている方向性があっていると思えた訳です。この手がかりを出発点として「色即是空、空即是色」を観の立場で考えたら、どのようなものが当てはまるのかということについて、ずっと考えて行きました。

白隠禅師は「大憤志」「大疑団」「大信根」の三つを以て仏教は修行せよと言われましたが、大疑団を以て突き進む中で、大信根が得られるものです。

その時の気持ちは申し上げると「この疑問、解決せずんばあるべからず」で、絶えず、これを考えること一年ほどでした。ある時『大乗起信論』の和訳の止観の章を拝読しておりました。この観のところを読んでいた時に、はっと気づいたのです。その時、読んだ一節を引用してみましょう。

観を修習せんとせば、当に一切の世間の有為の法は久しく停まるを得ること無くして、須臾に変壊し、一切の心行は念々に生滅し、是を以ての故に苦と名づくるなり、応に過去に念ぜし所の諸法は恍惚として夢の如しと観ずべく、応に現在に念ずる所の諸法は猶電光の如しと観ずべく、応に未来に念ぜん所の諸法は猶雲の忽爾として起こるが如しと観ずべく、応に世間一切の有身は悉く皆不浄にして種々なる穢汚あり、一つとして楽しむべきものなしと観ずべし。

このとき、「色即是空、空即是色は、それぞれ奢摩他(止)、毘婆舎那(観)に配当できるんだ」とひらめいた訳です。
大乗仏教は、小乗仏教の奢摩他(止)、毘婆舎那(観)を、空という観点で焼き直したに過ぎないともいえるんだとも分かりました。
諸行無常、一切皆苦、諸法無我は、これは毘婆舎那で見た世界、つまり智慧で見たら、こう見えると教えているのかと理解することができました。

この智慧で見えてくる世界をさして、空即是色と言っているのかと、つまり

 平等無相(空)の三昧(奢摩他)から立ち上がって見た(毘婆舎那)差別相(色)は、幻の如くに見えてくる世界だ
ということです。

この確信たるや、覚りのように堅固であり、「聖道門で修行するなら、仏の覚りが得られる」ことに疑いが晴れ渡ったのを今でも覚えています。

これほどの確信、間違っているはずがないという強い信念であり、私はこれを書き留めたり、人に教えようと何度も思いましたが、私が思ったところの邪説ではいけないと思い、それから、また、『般若心経』の解説本で、この考えが正しいことを確認をしようと考えました。それから、また、同様に、本を読む日が続いました。それでも、私の理解のような説明を見つけることができず[3] … Continue reading、この考えは邪説だろうか、封印してしまおうかと思い始めたのですが、諦め切れず、ひとまず忘れないように書き留めることにしました。賢首大師の書かれたものが出発点なのだから、この根拠から調べてみようと思って『般若心経略疏』を読んでみたのです。

そして、とても驚きました。

賢首大師は、『般若心経略疏』の中で、「色即是空、空即是色」を観の立場から、三通り説明があると言った上で、上の説明を二番目にしておったのです。つまり、やはり観の説明をしていたのです。また、一番目は何かというと、次のようでありました。

四には観行の釈に就いて、三つあり、
一つは、色即空と観じて、以て止行を成し、空即色と観じて、以て観行を成ず、空色は無二にして一念頓に現わる。即ち止観倶に行ずる方を究竟と為す。
二つに、色即空と見て、大智を成じて生死に住せず、空即色と見て、大悲を成じて涅槃に住せず、色空の境不二を以て、悲智の念、殊に成ざず、無住処の行なり。
(三つ目は、天台宗の立場を紹介しています。ここでは割愛します。)

賢首大師はすでに私の理解した内容を簡潔に説明していたのです。これを読んだ時は本当に驚きました。そして、頭が下がる思いでありました。私は、まるで賢首大師と智慧比べをさせてもらったかの如くでした。

私は、賢首大師の文の指示に従って、自分のありたけの力で勉強をして「色即是空、空即是色」を心から理解して、まるで孫悟空が山に「参上!」と書いた時の勝ち誇った心境の如く慢心でいっぱいでありました。これこそが、正解だと思った訳です。そして、戻って足下を見てみると、そこに前から答えが書いてあった訳です。自分は賢首大師の手のひらの中を飛び回っていただけなんだと本当に平服する思いでありました。

賢首大師はこれだけの真理を数行で説明しています。たぶん、最初に読んだのなら、見落とし、理解もできないほどの簡潔な説明です。聖者の智慧とはこのようなものでありましょう。私のような浅智慧と比べものありません。

賢首大師の教えは現在いろいろと批判されておりますが、このように智慧比べをしてみると、とても批判する気持ちが起きないのであります。

私は偶然にも賢首大師と智慧比べができたのですが、何人もこのような智慧比べをした上で批判などがあるべきかもしれません。多くの人が悟空の如きことを知ると、勉強の方向性も変わって来るのではないかと思う訳です。

 


脚注

1 実際そのように理解される人も今は多いようです。言語学的には違いがないように思えますから。
2 教観一如とか教即観という、天台宗は教観二門を別立したのに対して、華厳宗では教観一致の立場を取り教のほかに観を立てなかった。
3 後で、チベット仏教の中で、これに近い説明があります。チベット仏教では、虚空の如き空性と、幻の如き空性を説明していますが、それぞれ色即是空、空即是色に配当できます。

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