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諱(いみな)と字(あざな)

      2017/03/27


 いみなあざなというのがありますね。些細なことで特に関心ももたず深い勉強もせずに来ておりましたが、たとえば、中国の三国志などでもいみなあざなが、場面場面で使い分けられており、ドラマを見ていて時々混乱したのを記憶しています。

 これが仏教の人物の説明の中でもよく出てくるわけですが、分かったようで深く分からないでおりましたが、先日、『武士の家計簿』という本を読んではじめていみなの意味がよく分かりました。ただし、仏教用語はこれにまた房号とか院号とか、法名などがありますので、これらを整理しておきたいと思います。

 まず、『武士の家計簿』のその説明部分を抜粋しますと、

武士には二つの名前がある。「諱」と「通称」である。「信長」とか「家康」は諱であり、「太郎」とか「~兵衛」というのは通称である。「直之」というのは親などが名づけた「諱」である。これが本名といってよい。しかし、他人が「なおゆき」などと呼んではいけない。呼べば大変な失礼になる。この諱は本人ですら滅多に使わない。ただ公式文書に署名する時には使う。普段、使うのは「通称」である。直之の通称を「弥左衛門」といったが、これを藩主が「彦蔵」と変えてしまったのである。

 諱は、元服時につけられたようです。幼名などは、通称のうちに入り、いわゆる字ということになりますね。

 ちなみに、三国志でいえば、諸葛亮孔明の場合、諸葛は姓で亮は諱、孔明は字になります。
よって、親や君主が呼ぶときは、「諸葛亮」や「諸葛孔明」になり、同僚が呼ぶときは、「諸葛孔明」だったということになろうかと思います。

 これらが、近代では名前が一つしかつけられないということになって、通称名(字)と実名(諱)が同じという形でしょうか。

 さて、仏教の場合は名前はどうなのでしょうか。法然上人の場合をまず見てみましょう。法然上人は、よく御存じだと思いますが、法然というお名前と源空というお名前があります。ここでは、法然は法然房といって房号であり、源空は諱です。

 法然房や源空という名前を付けたのは師匠の叡空上人ですが、幼少でありながら、円頓戒を得ようとされた志を褒めて「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空上人が法然房と名付けたという話があります。源空とは源光と叡空から一字ずつとってつけられた諱です。房名は通称名のように使われたわけです。

 また、これ以外に、上人のような方は大師号というのがあります。これは天皇から送られる名前、諡号です。法然上人は、円光(えんこう)大師を始め、たくさんの大師号があります。

 親鸞聖人は名前がたくさんあるお方です。聖人は法然門下に入って、綽空という名前を法然上人から頂いています。これは仮実兼ねた名前だったといわれています。ところが、夢告を契機に仮名だけ善信という名前に変えられました。これは房名です。つまり善信房という通称名を使われたということです。その後、流刑の際は、僧籍(諱、実名)を剥奪されて、罪名を「藤井善信」とされて流刑に処せられます。流刑以後、親鸞聖人は禿の字を姓とし実名を親鸞として朝廷に届けて許可を得ています。これが非僧非俗の精神になるわけです。

 これは、次のような『六要鈔』に見ることができます。存覚上人は『六要鈔』において、

この故に今「愚禿釈」等と云う。「親鸞」というは、これはその諱なり。俗姓は藤原。勘解の相公有国の卿の後、皇太后宮の大進有範の息男なり。昔、山門青蓮の門跡に於いて、その名は範宴少納言の公、後に真門黒谷の門下に入って、その名は綽空、仮実相兼ぬ。しかるに聖徳太子の告命に依りて改めて善信とのたまう。厳師諾あり。これを仮号と為て後に実名を称す。その実名とは今載する所の是れなり。

 親鸞聖人の大師号は、見真大師になりますね。「慧眼見真 能度彼岸」という大無量寿経から来ております。この言葉は先生がよく話をされました。ちなみに、蓮如上人の大師号は慧燈大師といいますね。

 このように歴代の上人に大師号が送られたのは浄土真宗だけだと聞いたことがございます。

 現在は、名前は一つしかつけられないため、諱というような言葉は使われません。つまり諱のような名前を付けて、それを通称として使うようになっています。

 法名は、得度式を済ませた後につけるもので、浄土真宗では帰敬式の時に頂くことができます。自分のお師匠様から頂くこともできるようで、自分でこの名前というのは申請することもできるのでしょうか。少し分からないですね。ちなみに、先生は法名を持っておられて、多分瑞剱先生につけてもらったのだと思います。瑞剱先生の場合、瑞剱というのは法名ですが、由来は少し分かりかねます。最三が本名になります。瑞という字は昭和の始め天皇だけが使う文字として使えなかった時期があったと聞きました。先生は通称名として法名を使っておられました。

 私は前いたところの影響か、法名にあまり意味を感じなかったので、先生からもらいそびれてしまいした。また法名とは直接結びつきませんが瑞剱先生は得度はすすめておられたようです。先生はこのことをよく話しておられました。「得度をしたからと言って信心決定はできない。だから、そういう意味で得度せよとは言わないが、得度しないことがよいことではない」と。私も機会を見つけて得度をしたいものです。

 院号は亡くなれた仏法の先生などにはつけられます。瑞剱先生の院号は護城院になります。また先生にも院号がございます。一般の方でも亡くなった後にこういう名前を法名として頂くこともできるのだと思います。

 ちなみに、親鸞聖人には院号がありませんが、蓮如上人にも院号があるようで、信證院というようです。(これは調べて分かりました。)


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