究極な帰依処
2017/03/27
次のような内容が『宝性論』にあります。
「法および聖者のサンガは究極・最勝の帰依処ではない。法は道の完成をもって終局とするのであるから、筏の如くであると言われる。サンガというのは、三乗に属するものの集団の名称である。如来を帰依処として出離を求めるもので、これから学ぶべきものを持ち、為すべきものを抱えている。ただ一つ、仏たることだけが真実の世間の帰依処である。何となれば、牟尼は法身であるから。」
阿弥陀仏だけが究極の帰依処であり、善知識は帰依処ではあるが、筏のごとき存在です。筏なしには、向こうの岸には渡れませんが、筏にしがみついていては、やはり向こうの岸に渡れません。
法雷二祖の瓜生津師は、桂先生を指導されましたが、桂先生は瓜生津師の教えをいつもメモに取り忘れないようにしていたといいます。その様子をみて、瓜生津師は「師匠の教えを墨守するは、法雷の学風に非ず」と叱ったといいます。
墨守とは、カラスは白いと言われても、ハイと従うことをいいます。教えを墨守もせず、師匠を尊敬しないのは、筏もない状態なので求道以前ですが、師匠の言葉にとどまったら、また、筏から向こうの岸に渡れないということで、これもダメな分際です。
筏が大事かどうかは、師匠が大事、法が大事、教えが大事、聖道門では、分別が必要というような議論に通じると思われます。これらは筏のごとき存在で大切ですが、究極な帰依処ではないというのが正解でしょう。
善知識は全因縁だと教えられる内容も、合わせて考えるべきでしょう。
「曠劫多生の間にも出離の強縁知らざりき
本師源空いなさずば、このたび空しく過ぎなまし」
親鸞聖人のお歌も味わい深いものです。