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脅迫的な説明は、仏教らしからぬもの

   


 前いたところは大変脅迫的な説明が多くありましたね。

 無常(死)ということは確かに明日をも知らないという事実は分かるのですが、それゆえに聴聞も行かなければならないし、財施もしなければならない、また、勧誘もしなければならないというものでした。特に、この財施と勧誘ということはその会独特の話でした。そうしないと正会員の資格すらないというのは大変厳しいものでした。(今は正会員といわないようです)

 その根拠として「若不生者、不取正覚」がありまして、「すでに阿弥陀仏は仏になっておられるのだから、仏になったからには、正覚は仏様の命であって、正覚を取らないというのは、仏の命を捨てるということだ」と説明されていました。我々を救うために阿弥陀仏は命がけであるというのです。だから、聞く側も命がけに聞かないといけないという説明でして、捨命の聞法を勧めていたわけです。本当に脅迫的な説明でした。一事が万事でして、財施も法施も脅迫的に迫っていました。

 そのような会では求道自体が苦しみでした。ただ、地獄の苦しみには比べればましだというのですね。また、阿弥陀仏は貧窮を救うと誓われたからには、我々は苦しまないと救われないとも言っていました。しかし、このような脅迫的な教えぶりを歴代善知識はされたのでしょうか?

 後生が苦になって求めた人はいると思いますが、知識がこういう教えぶりをされたかどうかというところが問題です。

 遡ってお釈迦様はどうでしたでしょうか。お釈迦様の教えは慈悲深く、脅迫的な説明は排除されています。
次は『法句経』教学品の一句です。

慮而後言  おもんばかって、のちにいう
辞不強梁  ことばはきょうりょうならず
法説義説  ほうせつとぎせつは
言而莫違  いいてちがいはなかりけり

 ですから、仏教に脅迫的な説明はもともとないのですね。俺が命がけだから、お前も命がけに求めよと阿弥陀様がおっしゃるでしょうか。そんなことをおっしゃるはずはありません。

 仏教で「死んでこい」という表現は確かにありますね。
 これは全ての宗派で共通しています。聖道門では、これは我執を殺してこいということです。
 真宗では、自力を殺してこいということです。行き詰まってこいということですね。
 聖道門での「死んでこい」は、捨身聞偈のような話にもなり、必要ならば、身を施せとも教えます。しかし、これは初心者の菩薩に強いる内容ではありません。高い悟りを開いた菩薩は、自身の体の一部を喜捨することも平気にできると言います。しかし、まだ未熟な菩薩にそのようなことを強いたならば、恐怖のために勇猛心がなくなってしまって、求道が後退すらするので、そのようなことを未熟な菩薩に強要してはいけないとチベット仏教の中で聞いたことがあります。

 つまり死んでこいを強要することは、聖道門でもないのですよ。それなのに、浄土門の中でそのようなことを教えるのはどうかと思います。

 私の先生は、ある時、ネズミが蕪をかじる絵を瑞剱先生のところに持参して讃を書いて欲しいとお願いしたそうです。

 その時、先生は

大蕪、鼠に齧られ、声立てず

と讃じられ、これは阿弥陀様の事だぞと仰ったといいます。

 これは任運、自然ということを教えたものです。仏様になるともはや菩薩のような努力の必要がありません。自然に(努力なしに)我々を救う力が出て下さり、阿弥陀様はよそ見をしていても我々を救って下さると瑞剱先生は教えてくださっています。つまり、命がけというような努力は不要になった位を仏というのですね。

 また、安心決定鈔によれば、正覚の一念に我々の往生の手筈がすでにそろってしまったとも言えますし、阿弥陀仏は、正覚の一念に我々の救われる姿を見とおされたとも言えますね。そういうわけで正覚が成じられたとも言えます。

 法蔵菩薩は、観音菩薩のような「羊飼いのような菩提心」を起こしたのですが、兆歳永劫のご修行の中で、その智慧と慈悲(福智二資糧)が円満して、すでに阿弥陀仏となってしまわれたわけです。全ての衆生が仏にならなければ、正覚を取らないという本願もその力が自然と我々に届いて下さっているわけです。

 このあたりは果後の方便というような説明があり、いろいろと解釈が可能ですが、いずれにせよ、阿弥陀仏は命がけだというのは仏教をよく理解していないとしか思えない説明です。

 前いたところは、仏の慈悲を親の慈悲に譬えるのを嫌いました。親の慈悲は盲目の慈悲であるからというのが理由です。しかし、浄土真宗ではよく阿弥陀仏のことを親に譬えられるわけですし、「親様」とか、「御親」という言い方もよくございますね。確かに親の慈悲は、不完全な慈悲でしょう。でも「親様」という純粋感情を否定する必要はないのではないでしょうか。なぜなら、浄土門では、「情」(純粋感情)ということを教えますね。「情を難思の法界に流す」(文類聚鈔)「情を以て趣入する」(道綽禅師)と教えられるからです。

 仏の慈悲を親の慈悲に譬えるのを嫌うなら、仏様が命がけという説明も仏様を我々のような人間のように貶めて説明した誤りと言えるのではないでしょうか。このような脅迫的な譬に比べたら、まだ親の慈悲に譬えた方が弊害が少ないのではないでしょうか[1]ちなみに、チベット仏教では、大慈悲と親の慈悲の区別をあまりされないと聞きました。


脚注

1 ちなみに、チベット仏教では、大慈悲と親の慈悲の区別をあまりされないと聞きました。

 - 浄土真宗