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二種深信について

      2025/04/29


「安心論題」の中で説かれている二種深信ですが、一つ穏当でないと説明があります。それは、機の深信を捨機といい、法の深信を托法と教える点です。 捨機とは自力を捨てることをいい(ここで云う機は自力計度の機を指すようです)、托法とは他力に乗じることをいいます。機の深信により罪悪深重の無有出離の縁と知らされるから、捨機となり、法の深信により阿彌陀佛の本願を信じるが故に托法となるといい、捨機即托法であると教えています。 これは一見正しいようですが、二種深信は、初後不二の信心の相を教えたものです。ところが捨機托法は、初の一念の時の心相を教えたものです。何故なら、初念以後は、自力の心(はからい、疑い)はなくなってしまっているからです。念々に機の深信はあるわけで、その都度捨機となるわけではないはずです。ですから、初後不二一貫した相を教えた二種深信の説明に使うのは穏当でないと言わざるを得ないのです。 捨機托法は、明来闇去に喩えられます。これは前後があるように見えますが、一念同時の事柄なのです。表現する際には、説必次第と言って、前後ができるのです。これを明来闇去闇去明来といって説法されます。 実は、明来も闇去も、積極的に説明しているか消極的に説明しているかの違いで同じことを教えたものです。これを表銓法と遮銓法といいます。 捨機托法は阿彌陀佛の本願に信じ乗ずることを教えたもので、表遮で説明したものなのです。表銓法で表現したのが、托法であり、遮銓法で表現したのが捨機であって、どちらも同じことを表現しています。 捨機托法について説明した言葉として、「信受本願前念命終、即得往生後念即生」という言葉がありますね。 ここでは、信受本願が捨機として説明されています。前念命終の命とは、迷いの命、自力の心を指します。ここでいう信受本願はどちらかというと託法的な表現ですので、これで機の深信が必ずしも捨機でないことが知られます。 さて、実は『六要鈔』に二種深信の説明として、次のようにあります。

無有むう」 とらは、 まさしくぜんぜんろんぜず、 こうらず、 しゅつひとへにりきにあることをかす。 しょうどうしょきょうさかんにしょうぶつ一如いちにょだんず。 いまのきょうりきこうなきことをるによりてひとへに仏力ぶつりきす。 これによりてこのしんことに最要さいようなり。

無疑むぎ」 とらは、 「にゃくしょうじゃしゅしょうがく」 (大経巻上)、 しょうがくすでにじょうず、 ゆゑに 「無疑むぎ」 といふ。 「即得そくとくおうじょうじゅ退転たいてん」 (大経巻下)、 一念いちねんあやまることなし、 ゆゑに 「りょ」 といふ。

と、これを卒爾に読むと捨機が機の深信のように見えますが、これはそういうことを教えたものではありません。あくまで、阿彌陀佛の本願に乗託する相を教えているのです。 また鎮西派が、二種深信を捨機と托法に分けて教えているようで、これらから、今日の教学の説明があるのだと思われます。二種深信を誤解することは大変深刻な問題です。よくよく考えてみるべきことであります。 機の深信、法の深信を説明するとすれば、「聞とは、佛願の生起本末を聞きて疑心有ること無し」とは、親鸞聖人の教行信証のお言葉ですが、機の深信は佛願の生起を信知したことをいい、法の深信は、佛願の本末を信知したことをいいます。これで十分なのです。

 - 法雷窟