事々無碍法界とは何を教えたものか
2017/03/27
はたして「事々無碍法界」とは何を教えたものでしょうか?これは、仏教の最高の境地を教えたものだとよく言われていますね。
あるサイトの説明によると論理的に理解するのみです。その説明では何を言っているのか理解に苦しみます。論理的というのは、時には法雷でもそういう説明であるのでして、文字解釈的な説明にとどまる場合がありますし、物質的な解釈がなされることもあります。こういう教えを聞く側は気を付けなければならないところです。仏教の用語は文字解釈だけでは足りないのです。「教観一如」という言葉がありますね。これは教は観を成就するためのものであるということです。つまり教えは悟りに導くために存在しているということです。
天台宗では教は観を成就するためのものとして観を別立し説明しましたが(教観二門)、華厳宗は教即観といいまして、教のほかに観を立てないのであります。ここで教える「事々無碍法界」は華厳の教えですので、これは教のままが観であります。
この無碍というのも、円融無碍であるから、円融の意味というところまでは皆理解しますが、これでも観でとらえるには十分ではありません。
私は四法界についていろいろ考えた時期がございました。それはちょうど色即是空について考えた後、懺悔滅罪について考えていたころです。どうして懺悔で滅罪ということがあるのか、先生に質問しましたが、先生は「無我」という点で一致しているという説明でした。ただ、それだけでは今一つ分からなかったのです。ここでいう無我とは「勝他の心がない」の意味でありましょう。しかし、本来の無我ととらえると「私は間違っていた」と後悔するわけですから、我がないわけがありません。そんなこともあり、消化できないでおりました。ある時、「感応道交」ということを思ったときに合点がいったのです。懺悔はどういうときに起きるのでしょうか?懺悔は何かしら大きな真理に触れたとき、つまり真理と感応の中でしか起きないものだということが分かったからです。結局、禅定滅罪は感応の理の辺についたもので、懺悔は感応の事の辺についたものだと理解したのです。その時、何かもやもやしていたつっかえが取れたような気がいたしました。
実際に道徳的な法律を犯した人が「悪うございました」と懺悔するのは、真理というか道徳というか大きな法に触れたときです。そういうことなしには懺悔は起きません。また、禅宗では禅定のことを理の懺悔というようです。この理辺か事辺かという理解は正しいと思われます。
さて、先生といろいろ話をしたことを思い出しました。ある時、先生が法話の中で、『毒語心経』の話をされました。先生は一度不整脈を患われて、その際に「本当に死ぬ」という思いを何度もされたようです。それで、瑞剱先生を訪ねられて、汽車に乗って3時間ほどでしょうか、3時間ほどかけて瑞剱先生を訪ねられたをいう話をよくされました。その時、瑞剱先生が「前回の時は大変世話になった」と声をかけられたそうです。それは法話の世話を先生がされていたからです。その時、先生は「それどころじゃありません。死ぬ、死ぬ、死ぬ!」と手の脈を抑えて叫んだそうです。それを聞かれた先生は、さぁっと目の色をかえられて「すぐに死ぬことはないから、上がって行きなさい」と言われ、先生を介抱されたようです。その時、瑞剱先生は『毒語心経』を読まれていたようでして、その時の説明は、それにまつわる話だったようです。
「焼かれて無くなってしまうお経ばかり読んでいるから、そんなことになるんだ」
「焼かれて無くならないお経があるんだぞ、阿弥陀様は生きておられるんだぞ」
ということを教えて頂いたと何度も話しておられました。
それから先生は『毒語心経』(白隠禅師の書いたものです)の手ほどきを瑞剱先生から受けたとのことで、時々『毒語心経』の話しをしてくださいました。
その法話の内容は、『毒語心経』の言葉を使った回向の説明でした。『毒語心経』の中に、次のような言葉があります。
他が李母の左肩を患るを見て、数壮、張婆の右脚に灸す
これは李母さんの左肩を直すのに張婆さんの右脚に灸をするということです。「面白いことを書いてあるだろう」と言われました。瑞剱先生は、よく「太郎さんが酒を飲めば次郎さんが酔っぱらう」と説明をされたようです。そういうことがあるんだぞということです。
私はあくる日先生の控室でこの話について質問しました。「これは感応道交のことですか?」先生に「そうだ」と教えて頂きました。その時、私は次のことを話しました。
「そうしますと、理事無碍と言っても、事々無碍といいましても、感応道交にほかなりませんね。」
感応道交は滅罪の原理です。私たち浄土真宗の信者は、滅罪についてよく研究すべきです。
理事無碍法界は、禅定の中で理の辺についての感応道交です。つまり法身仏との感応道交と言えます。
事々無碍法界は、禅定などがまだできない凡夫への教化でありまして、事はある時は師匠であり、ある時は報身仏であります。そしてもう一方の事は私であります。
結局、事々無碍法界とは我々が救われていく原理を説いたものです。
さて、こう考えてきますと、『般若心経』には「理事無碍法界」までしか説かれていないわけです。そこで、空海は、『十住心論』の中で三論宗の「理事無碍法界」しか説かない教えよりも「事々無碍法界」を説いた華厳宗の方を高い位に据えたのです。(真言宗は、この「事々無碍法界」の実践方法が説かれているとして、いわゆる入我我入を一番高い位にしています。)
お釈迦様の教化の素晴らしかったことを思い出して下さい。多くの人がお釈迦様に救われていきました。一度お釈迦様を拝見させていただいただけでも大きな心の安心が得られた方が多かったのです。
これこそ、心性の接触(瑞剱先生は人格の接触と教えてくださいます)と申しましょうか、そういう中で私たちは教化され、救われていくのです。それこそが「事々無碍法界」なのです。
こういうことを知ると善知識の必要性も分かりますし、また、阿弥陀仏がなぜ六字名号を用意されたかもわかるというものです。