牛盗人といわれても善人の振いをするなとは高慢心を諫められたもの
2017/04/12
さて、牛盗人について、前の投稿は前田慧雲さんの説を書きました。
ところが、先日、中央仏教学院通信教育のHPを見ていると別の説で説明されています。これによると当時、天台宗の人たちが、自分たちの教義を盗んだ外道に対して、牛盗人と言っていたらしいということでした。
真宗の人たちを牛盗人というように呼ばれることが事実だとしたら、少し解釈が変わってくるかもしれませんね。 ただ、その場合、牛盗人と呼ばれても、後世者、念仏者の振る舞いをするなというのは論理的に破綻しているようにも思えます。 というのは、「真宗のものと言われても,真宗の振る舞いをするな」というのはおかしな話だからです。まあ、そういう意味で釈然としないところが残りますね。これに対してうまく説明されていないように思えます。
前田慧雲さんの説明は、
これは、ある高僧が牛盗人と間違えられて捕まったが、自分の業果が帰ってきたとみられて、釈明一つもせずに捕まったという話です。
「たとえ牛盗人と言われても、後世者、念仏者の振る舞いをするな」という説明は上記の説明でよく分かるように思います。また親鸞聖人の説話には小乗仏教から来るものがいくつかございます。歎異抄の千人の人を殺してこいという話も、小乗仏教のアングリマーラから来ています。ですから、牛盗人も小乗仏教説話から来ていても不思議ではありません。
私としては、やはり前田慧雲さんの説の方を取ろうと思います。 さて、これはチベット仏教の密教の話の中で、彼らはやはり自分たちが密教行者というような振る舞いをするなと言われていたようです。その点、似通っているところがありますね。 なんというか、迫害ということがベースにあったのか、高慢心をいさめておられるのか、どちらかというと後者のような気がいたします。
表題の写真は狂言の牛盗人の一場面です。謡曲や歌舞伎、または狂言などは仏教から来ていることが多いです。私の先生はよくこのような話をされました。