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『金剛般若経』の金剛の意味は

   


他の般若経典には金剛という名がつけられず、『金剛般若経』だけに金剛の字が添えられているのは何故でしょうか。

金剛は、智慧の異称とも言われ、玄奘三蔵は、煩悩の異称だと言っています。
どちらも固いダイアモンドのように、という意味で使われています。
金剛は、金剛喩定とか、金剛乗とか、とても大事な所に使われています。

金剛般若経では、「AはAでない、故にAである」というような言葉使いが多くなされています。これは一体何を言っているのでしょうか。

「スブーティよ、仏陀の教法、仏陀の教法というが、それは実に仏陀の教法ではない、と如来は説くのであり、それゆえ、仏陀の教法と呼ばれる。」(長尾雅人訳『金剛般若経』、中公文庫)

鈴木大拙氏は『金剛般若経』を禅宗の否定の論理となぞらえて説明していますが1)即非の論理という、そのように理解すべきではなく、ここでの内容は、これは、Aを捕らえつつ、Aを否定して、またAに戻ることから、これは三昧(平等無相の三昧)から立ち上がって見た世界を教えたものだといえます。

つまり後得智で見た世界を書いているのです。また、これは毘婆舎那(観)で見た世界を書いているともいえます。さて、この後得智の智慧こそが、煩悩を断破する力があるから、金剛と冠せられたというべきです。

さて、後得智で見た世界は、チベット仏教で教えるような、ただの三昧からさめた世界なのでしょうか2)チベット仏教では、奢摩他、毘婆舎那は、定の中での観察の方法で、毘婆舎那の延長に後得智を考えない説明をしていた。後得智はあくまで三昧(平等相)からさめた後で見える世界としていて、三昧の強烈な体験のために、三昧前と同じようには見えず、現実が夢のような心地がすると教えています。。しかし、これは、覚りを十分得ていない時に、このような理解になってしまうのではないかと推察されます。

確かに、修行の完成していない人はそうに違いないと思うのですが、本来の後得智は、毘婆舎那の延長であって、それこそ煩悩を断じる智慧のことであると言えましょう。

ここで確認したいことは、煩悩を断ずる智慧をテーマにして、この金剛般若経が書かれ、金剛の字をお経に冠せられたということです。

金剛般若経で有名なお言葉は次ぎのようです。

一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是観
一切の有為法は夢・幻・泡・影の如く、露の如くまた電の如し。應に是の如きの観を作すべし。

客観や主観までも幻の如くに見えるならば、最早、煩悩の対象は無いことになります。私達は、本来ない筈の実体性を有ると見るが故に煩悩で苦しむのです。

打つ人も打たれる人も、もろともに、ただひとときの夢のたわむれ

これは夢想国師の歌と言われますが、これは忍耐を教えたものと思われていますが、これは実体性が無いという空を覚ることから来る、煩悩の無い境地を歌っています。

良寛さんは次ぎのように詠んでいます。

打つ人も打たれる人も諸ともに 如露亦如電 応作如是観

これも同様ですね。これらの歌と一緒に金剛般若経の内容を考えると頷ける所もでてまいります。

 


脚注   [ + ]

1. 即非の論理という
2. チベット仏教では、奢摩他、毘婆舎那は、定の中での観察の方法で、毘婆舎那の延長に後得智を考えない説明をしていた。後得智はあくまで三昧(平等相)からさめた後で見える世界としていて、三昧の強烈な体験のために、三昧前と同じようには見えず、現実が夢のような心地がすると教えています。

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