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三毒・五悪訓誡について

      2017/02/28


 『無量寿経』下巻の釈尊の勧信誡疑から釈尊の勧説まで、三毒・五悪訓誡は、その文体が少し変わっているところです。

 特に五悪訓誡は、内容が儒教的な要素も感じられ、親鸞聖人も引用されていない所として逆の意味で注目されています。

 私は昔『大無量寿経』の異本の校合というのを自分なりに行ったことがありますが、その際気づいたのは、この部分は『平等覚経』または『大阿弥陀経』から抜粋したのだろうということでした。

 『無量寿経』の異本には、二十四願系のものと四十八願系のものがございます。
 今、『無量寿荘厳経』は四十八願系でありながら、少し系統が異なるので、ここでは除外してお話ししますが、二十四願系の経典は、『仏説無量清浄平等覚経』と『仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』であり、四十八願系の経典には、『仏説無量寿経』『無量寿如来会』がございます。この四つの経典には、成立に時代的隔たりがあり、二十四願系の経典は初期大乗経典の成立時期と時期を同じくしていて、四十八願系の経典は、後期大乗経典と共に成立しており、梵本も現在存在しますが、これは『無量寿如来会』に一番似ております1)経典は中国に何度も翻訳されましたが、経典の進化のある断面、スナップショットが翻訳されて残っている点、興味深いと言えます。ネパールやチベットなどに今残っているお経はいわば最終進化形、つまり最新のお経です。古い形のお経は、中国に訳出されたものから伺うしか術がないのです

 四十八願系の無量寿如来会と梵本には、実はこの三毒・五悪訓誡の章はありません。経典の校訂作業の過程で大無量寿経から無くなった箇所になるのです。三輩章も、無量寿如来会では簡略化されている点を考えますと、お経は経典編纂の中で教義的にも整理されていったことが推察されます。特に大無量寿経には善悪のような内容は徐々に除かれて、テーマが信疑にしぼられていくのが見て取れるのです。

 さて、この「三毒・五悪訓誡」の箇所ですが、私が思うに、ここは『平等覚経』から抜粋したのだろうということです。つまり、『無量寿経』を訳出しようとした時に梵本に已に無かった可能性が高いと思います。そのために、欠損部分を平等覚経から抜粋した可能性があります。こういうことがなされる過程を善意に推察するに、『平等覚経』などを横手に置きながら校合をしていた際に、この「三毒・五悪訓誡」部分の欠落に気づき、梵本が欠けていると思って、翻訳者が欠落部分を補った可能性があると思います2)実は翻訳者も今の大無量寿経は宝雲と仏陀跋陀羅の共訳ではないかと言われています。仏陀跋陀羅は、華厳経を訳出した人で有名で、禅定が得意であったと言われています。鳩摩羅什と同時代の人です。鳩摩羅什は仏陀跋陀羅の交流を望み、長安に招くのですが、中国の方はメンツを大事にする風潮があって、学派の派閥争いのようなものがあったようで、仏陀跋陀羅は、最終的に廬山の慧遠のところに身を寄せます。

 何故、そのように推察出来るのかといいますと、平等覚経(二十四願系の経典)を読んで行くと、四十八願系の経典では「十方衆生」と訳しているところを「諸天人民蠕動之類」のような表現をしています。これは本願文がそのようになっているので、容易に理解されると思います。

 ところが、この「諸天人民蠕動之類」という表現が、実は『無量寿経』の五悪段の始めの所にも出て来るのです。本願文の訳出から考えれば、これも「十方衆生」と統一して訳出していないとおかしな事になるのですが、ここでは「諸天人民蠕動之類」という表現をそのまま使っているのです。このことは、注目されなければなりません。

 ここから、この部分は『無量寿経』の訳出時には、梵本に已に失われていたのであり、それを訳出者の配慮で、平等覚経から抜粋し、言葉を整えて加えられたと推察されるのです。これは、この部分をずっと平等覚経などと比較して見てみると、ほとんど同じ文であることから、その証明も出来ると思われます。

 この事について、今まで先哲が何も言及していないのはとても奇異な気さえ致します。もしかしたら『無量寿経』の異本の研究というのは、あまり興味のある課題ではなかったのかもしれません。

 


脚注   [ + ]

1. 経典は中国に何度も翻訳されましたが、経典の進化のある断面、スナップショットが翻訳されて残っている点、興味深いと言えます。ネパールやチベットなどに今残っているお経はいわば最終進化形、つまり最新のお経です。古い形のお経は、中国に訳出されたものから伺うしか術がないのです
2. 実は翻訳者も今の大無量寿経は宝雲と仏陀跋陀羅の共訳ではないかと言われています。仏陀跋陀羅は、華厳経を訳出した人で有名で、禅定が得意であったと言われています。鳩摩羅什と同時代の人です。鳩摩羅什は仏陀跋陀羅の交流を望み、長安に招くのですが、中国の方はメンツを大事にする風潮があって、学派の派閥争いのようなものがあったようで、仏陀跋陀羅は、最終的に廬山の慧遠のところに身を寄せます。

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