シリーズ大乗仏教を読んで
2017/03/16
今、シリーズ大乗仏教の第一巻『大乗仏教とは何か』を読んでいます。
平川彰さんなどのそうそうたるメンバーが書いた『大乗仏教講座』を新しい研究成果をもとに編纂し直したもののようですが、二十五年ほどの研究成果が盛り込まれていて大変面白いです。
大乗仏教は初期大乗仏教経典がどのようにして出来たか、その起源は未だに解明できずにいる訳ですが、これに対して偏見とも言えるほどの間違えたアプローチが多かったと思っていました。例えば平川彰さんの仏塔信仰説などは興味こそ沸きはしても、それが正しいかどうかは甚だ疑問でした。
しかし、この平川彰さんの研究の反証とも取れる証拠等が英欧などで研究されており、その研究成果もこの本では紹介しています。
そもそも大乗仏教の起源を求めること自体が間違ったアプローチではないか、という発想していて大変面白いものだと感じました。しかし、どうしても日本人は起源というものを追ってしまうところはあります。私も大乗擁護の立場で起源を考えてしまいます。
実際は、初期大乗経典は一箇所から発生していたのではなく、複数の場所で存在していたはずで、それを大乗仏教の論師である龍樹菩薩や無着菩薩などによって集められて統一した意味づけがなされて行ったという歴史があるので、そういう意味では、龍樹菩薩や無着菩薩にでも、その起源が分からないという現実があったのです。
また、この本を通じて隠没論というのもあることが分かりました。玄奘三蔵の書物を読むとこの隠没論がベースではないかと思われる説明が多く、これを読んで理由が分かったのですが、それは、小乗経典は阿難が中心になって結集して、大乗経典は教団外で結集された、という説ですが、この隠没論の説明で納得できました。これは阿難が結集した阿含経と言っても阿難がお釈迦様に使えたのは後年の二十年ほどであり、その前の二十年は結集から漏れたというものです。
また、大乗仏教は独自の律を持っていないというのも興味深い内容で、これも教団外で特に初期の大乗経典は結集された事実があると思われるわけです。
このような事を考えると教団の外にいた初期の釈尊の弟子による伝持である可能性も否定できません。それらの証拠が出ない以上は、あまりここを深追いするべきではなく、お釈迦様の直系か否かの議論は別においておき、一つの起源から生まれたというような理解よりは多面的な発生の中で、大乗仏教の発展を捕らえるべきだとというのは正しいアプローチかもしれません。
その本では定説の是正がなされていて、大乗非仏説のような悲しい論理や、後生がないと教えたのが仏説である、というような謬見を定説のようにしてしまった現在の日本仏教界が、是正されていく道があるかもしれない、と思って少し希望を見いだしたのでした。