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仏教には三昧相伝の歴史がある

      2017/03/02


 日本の仏教学者(特に浄土真宗の学者の方)は、南伝仏教が紹介された明治初期のころ、大変動揺されたようです。その結果、今日のような仏教の衰退に至ったのだと思いますが、仏教は歴史学的文献学的に研究し、確信すべきものでしょうか。

 そのような確信は、また新しい事実が出てきたら揺らいでいくものでしかないのです。ただし、それらからの成果も無いとは思っていません。ただ、それによって、信仰を確立すべきではないという意見であります。

 一度、親鸞聖人は架空の人物ではないかという疑問を出されて、教団が揺らいだことがありました。結局、教行信証の御真筆本(坂東本)が筆跡研究の上で証明され、また惠信尼様の手紙が出てきたことで、親鸞聖人の存在を疑う余地がなくなり、本件は解決しました。

 禅宗では、宗祖の達磨大師の存在を疑問視されることが多く、二代目の慧可禅師の手を切る話も後世の作り話ではないかと疑われています。しかし、禅宗の人たちは、このような疑問を意に介さないようです。それは仏教を歴史学的、文献学的にとらえるものであると理解していないからでしょう。こういう点を真宗でも見習うべきではないでしょうか。

 私は当初、仏教の勉強には歴史的文献的アプローチが大切ではないかと、南伝仏教の法句経の勉強したことがあります。しかし、当時のお釈迦様は、パーリ語でもないマカダ語で話しをされていたといわれます。つまりお釈迦様当時の言葉が残っている訳では無い訳です。近い言葉でしかありません。2600年の歳月の中で、お釈迦様の言葉は文献学的には明らかに薄れてきている実感がいたしました。「このような勉強の中で確信を望むのは無理があるかもしれない。」私はその限界を強く感じたのを覚えています。

 ある程度の成果でよしとするなら、それなりの成果も得られるでしょうが、仏教を解脱宗教として、その神髄を得ようとする時、ある程度ということでは、結局解決の目処が立つものではないでしょう。

 また、元々お釈迦様は自分の言葉を経に記すように指示されておられません。その事を考えますと、私達は徒に歴史を追い回しても徒労で終わってしまうかも知れません。ただし、今日の歴史学的文献学的学究を否定するものではありません。そこからでも、大乗仏教の偉大さが読み取れるケースは沢山あるからです。

 龍樹菩薩が、大乗非仏説に反論している所があります。それは歴史学的証明のような説明をされていません。

このようなすばらしい真理が仏説でないはずがない。

 一言で言えば、このような説明なのです。私たちも、大乗仏教に対して、その教えの素晴らしさに確信を得るならば、大乗非仏説のような疑いは自然に無くなるでありましょう。

 瑞劔先生は、仏教には三昧相伝の歴史があると教えて下さいました。歴史が無いのではありません。三昧の中で聖者方は相伝を得るということを忘れてはなりません。


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