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一切を学すべし

      2017/02/28


 行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。
『観無量寿経疏、散善義』

 これは『観無量寿経疏、散善義』のお言葉です。浄土真宗の昔の学者はこの言葉に従って、大変仏教を勉強されたようです。有縁の法は善導大師の御心では、実は浄土真宗であって、私達の機に応じる教えは阿弥陀仏の本願しかないためです。

 但し、勉強の仕方には注意が必要で、浄土真宗の眼で統一するような所が必要であり、それが出来ないとミイラ取りがミイラになることがあるからです。そして、結果的に悟りが得られないということになってしまいますね。私の先生は、最後の締め上げはやっぱり浄土真宗の先生で無ければいけないとよく言われました。そういう眼は他の聖道門の先生は持っておられないからです。

 私は今チベット仏教を勉強していますが、どうしても浄土教批判を平然と行っています。これは、無着菩薩の教えの系統のせいかもしれません。他力批判をされますね。他力では解決しないというのです。親鸞聖人など浄土真宗の祖師方が、了義を仏語、未了義を菩薩・人天の教えとしたのは、このような背景がございます。

 龍樹菩薩は、八宗の祖師とあがめられる方で、聖道門も教える立場であったため、浄土門の教示は面白いものでありました。

 早く阿毘跋致(不退転)になりたいというので、何かよい方便はないかという質問をした菩薩に対して、汝のような質問をするものは、獰弱怯劣のものであり、大丈志幹のものは、そのような質問はしないと答えて、それでも、あえて答えようといって、浄土門を解説されています。聖道門を護る上では、浄土門の説きぶりというのは難しいものがあったのかもしれません。

 もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。『十住毘婆沙論』

 このように説かれながら、龍樹菩薩ご自身は、この易行道にちょっこりと座っておられたのですから、面白いです。

 宮沢賢治は法華信者として有名ですが、元々浄土真宗の家の出身でした。ある時、島地大等さんの法華経の講義を聴いて大変感動されて、その後、法華信者になったということでした。島地大等さんは真宗のお坊さんですが、天台学の勉強をされた学者さんでもあったので、法華経の講義が上手だったようです。そのような事ですので、仏教の勉強はまず、浄土真宗から初めて、それが十分信じられたら、初めて仏教学に移って仏教を勉強するのがよいのだと思います。

 法雷では、信が得られるまでは、真宗を専門で勉強し(特に行信論を半学と言われます)、信が得られたら大乗の教義を勉強せよとも教えられています。ただ、瑞剱先生の話しを理解するには、仏教の勉強をせざるを得ない所はありますね。


 - 浄土真宗