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汝の信不及なるが故に

      2017/02/28


汝が信不及なるが故に、今日葛藤す

これは、臨済録の言葉です。私の先生に何度かこの言葉で叱られたことがありました。私達は、阿弥陀仏の本願を信じる前に、自分の事が信じられないという自信喪失に陥ることがありますね。俗にスランプとか、鬱とかいう状態がそれになります。

禅宗では、お釈迦様も自分も同じ人間であるというところに立って奮発心を起こすようです。

釈迦も元は凡夫なり、我も覚れば仏なり

そういう奮発心を浄土教の場合は、阿弥陀様が親様だという所にたって、信じるべきでしょうか。

奇なるかな奇なるかな、一切衆生ことごとく皆如来の智慧、徳相を具有す、ただ妄想執着あるゆえに証得せず 『華厳経』
とあり、すべての人が本来如来の智慧、徳相を具有しているのが、ただ、客塵煩悩によってそれを見ることができないでいるのです。結局、仏性とは、阿弥陀仏の光明のことであったと我々は本当の親様と対面することで知ることが出来るのです。

かみさんが、中国にいたころ、鬱の症状になった事があって大変心配したことがありますが、その時に、有暇具足の話しをして快方に向かったのを覚えています。

生死解脱出来るのはこの人間に生まれた時だけなのです。どんなに辛いことがあっても、人間に生まれたという本当に幸せの身である事をかみしめて生きて行く必要がありますね。

有暇具足とは、八つの有暇と十の具足を合わせたもので、仏教を修行するのに適した条件です。「八有暇」とは、次に示す八つの悪い条件(八無暇、八難)から離れた境涯のことです。すなわち、

  1. 在地獄の難、地獄に生まれる
  2. 在餓鬼の難、餓鬼に生まれる
  3. 在畜生の難、畜生に生まれる
  4. 在長寿天の難、長寿天に生まれる(長寿と享楽や禅定に甘んじて、仏道修行に努力しがたい)
  5. 在辺地の難、仏教の実践者である四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が活動せぬ辺境に生まれる
  6. 仏前仏後の難、仏陀が出生せずその教えを知らぬ時代に生まれる
  7. 盲聾瘖瘂の難、知覚能力が働かない
  8. 世智弁聡の難、邪険を抱く

人間に生まれて仏教を聞ける身である事をよく味わうべきでしょう。「十具足」は、ここでは割愛します。

まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。

信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。

 またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。 『横川法語』


 - 浄土真宗