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『歎異抄講話』瓜生津隆雄著を読んで

      2017/02/18


瓜生津隆雄さんの書いた『歎異抄講話』には、発見があったので、それを書いておきます。

唯円房が誰でどのような方なのか。
慈悲を起こすということを法然上人のお言葉で説明している。

瓜生津隆雄さんの『歎異抄講話』の中には、唯円房は誰なのか、分かり易く説明されています。

唯円房は、河和田の唯円のことだが、平太郎の弟平次郎というのは間違いだろうと説明しており、覚信尼の夫(小野宮禅念)の前の奥さんのお子さんのようです。つまり唯善*1の義兄にあたる人のようです。
小野宮禅念という人は、聖人に深い信頼をよせていたようで、自分の子息である唯円大徳を聖人の手元にあずけて、教育を委ねたのであろうと説明されています。善鸞の長子如信上人もこのころ聖人のもとにおられて、ともに聖人の教えを聞かれたものと思われるとも書かれています。

この証拠として、真宗史家である先啓了雅師の書いた『大谷遺跡録』巻三の法喜山報仏寺の寺記を示されていて、すなわち、板東環城氏は次のように語っている。

 常陸国茨城郡河和田法喜山報仏寺は、高祖御弟子河和田唯円法師の遺跡也。唯円房、俗姓は、小野宮少将入道具親朝臣の子息に、始めは少将阿闍梨(失名)と申しける人の、世を遁れて禅念坊となん号せし人の真弟*2なりと云々。高祖御帰洛の後、仁治元年、十九歳にして高祖*3の御弟子となり、真宗の奥義に達せり。大部の平太郎の達請により師命も亦重ければ、常陸国に下り、河和田に弘興の基跡をひらいて、これを泉慶寺と云ふ。盛んに専修念仏の法を弘通す。文永十一年五十三歳にして上洛し、・・・また正応元年乗宅し、覚如上人に謁し奉り、同二年二月六日六十八歳にして下市に化す。 『大谷遺跡録』巻三

また、慈悲について、『西方指南抄』に法然上人のお言葉や『心地観経』の一節の次のようなお言葉が紹介されています。

あながちに(念仏を)信ぜざらん人をば、御すすめ候べからず。仏なほ力及びたまはず、いかにいはんや、凡夫の力は及ぶまじく候。かかる不信の衆生をも過去の父母兄弟なりと思ひ候ひて慈悲を起こして、念仏申して、極楽の上品上生に参りて覚りをひらき、速やかに生死にかえりて、誹謗不信の人をも、迎へむと思召すべきことにて候なり。 『西方指南抄』
有情は輪廻して六道に生ずること、猶し車輪の始終なきが如し。或いは父母となり、男女となりて、世々生々に恩あり 『心地観経』

これらは、聖道門で教える菩提心を起こす方法です。(瓜生津さんは、このような説明をされていません。)これなどは、慈悲について法然上人も親鸞聖人もどうとらえていたかが知れるものだといえると思います。

また、これは第四条の慈悲についての説明の次の条である、第五条の追善供養を否定された章にも、同様の考えが顕れています。

親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて、たすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を迴向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々

「そのゆへは」と教えられているこの一節は理解が難しいところです。瓜生津隆雄さんは伝統的教学に則って、この一節を「法界の故に平等に救うべきだ」と説明していますが、理解しずらい説明だと感じますね。これは「父母兄弟なり」の後に、「浄土の慈悲を起こして」という言葉を補うと分かるようになります。つまり、この章は前の章の聖道の慈悲と浄土の慈悲の説明から続いている説明で、それが根底にあって説明しているため、省略した説明になっているのだと推測できます。

 

注:

1:無宿善往生をとなえた人

2:唯善と別腹の舎弟

3:その時六十九歳


 - 浄土真宗