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運・鈍・根

      2017/02/28


 私の先生は滋賀県の方ですが、よく「運・鈍・根」という話を教えて下さいました。この言葉は、豪州商人の話から来ていて、成功する豪州商人の性格をあげると「運・鈍・根」の特徴がある、というものです。

 また、豪州商人は仏教を大切にしながら商売をされた、ということも聞きました。この運・鈍・根はちょうど仏教にも通じるところがあるというように話しをされました。先生のお婆さんが小さい頃よくこの話しをされていたそうです。小さい頃ですから、うどんのことだと思って聞いていたと冗談話しのように話しをされました。

 運は宿善で、宿善がないと善知識に巡りあうことができません。宿善の話の際によく先生は、蟻で喩えられておられました。蟻が遠くにある食べ物を探し出すように、宿善のある人は善知識を見つける能力があるという話しです。

 宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて招かざれども人を迷わすまじき法灯には必ず睦ぶべきいはれなり、宿善なき機は招かざれども自から悪知識に近づきて善知識には遠ざかるべきいはれなれば、睦びらるるも遠ざかるも且つは知識の瑕瑾もあらはれ知られぬべし 『改邪抄』

 鈍は、あまり頭がよく無いということですね。これは不思議に感じるかもしれませんが、頭のよい人は、よく早とちりされる事が多いように思います。
頭の回転が速いので、分かったと思うのも早いんでしょうか。ただ、仏教においては、一端の理解など大概が誤解か浅い理解でしかありません。

 天才という方でもそうですね。仏教の天才は、道理を聞きもしないのに、深く理解するというような方で、それと世間的な天才とは趣きが異なります。結局、仏教を深く理解していくにはかえって頭の良さは邪魔になることがあるかもしれません。

 逆に少し頭のよい人はこういう弊害があることを知って、自分の理解を反省されるのがよいということでしょうか。私の先生方は、「率爾」に理解してはいけないと警告されています。異解異安心のたぐいは、こういうところから来ている場合が多いからです。

 仏法の由来を障子・垣越に聴聞して、内心に『さぞ』とたとい領解すというとも、重ねて人にその趣をよくよく相尋ねて、信心の方をば治定すべし。そのまま我が心に任せば必ず必ず誤りなるべし 『御文章』

 最後の根は、根気のことです。結局、根気よくやる事が成功の道です。仏教を求める場合は、十年一日の如く求めなければなりません。私の先生は、瑞劔先生に就かれて二十年勉強されました。ある時、山本仏骨勧学に、瑞劔先生の質問を持って行ったことがあるそうです。

 その時は山本仏骨さんは風邪で休んでおられて会うことができなかったが後日会った際に「この間は風邪で失礼した」と仰って、質問には丁寧に答えて下さったそうです。

 その上で、山本仏骨さんが逆に法雷のことを聞かれたとのことでした。先生は法雷の研究会に参加していることを話されたそうです。「どれくらい勉強してなさる」と聞かれたので、「二十年くらい」と答えたところ、山本仏骨さんの態度が変わったそうです。

 行信教校も、二十年も長くは続けることがありませんから、たぶんびっくりされたのでしょう。それから、先生の名前を覚えて時おり話題に出されたりされたそうです。

 このように、長い時間をつぎ込んで仏教の勉強は成就するものです。

 また、同じことを何度も頂いていくということも大切です。ある先生が、自分のご子息の正信偈を講義しなさいと指導されて、ご子息は、正信偈を講義をされて一度それが終わったそうです。そして、今度は何をしましょうかと聞かれたところ、もう一度、正信偈を講義しなさいと言われて、繰り返して講義をされたそうです。

 また、私の先生は、錦織寺で正信偈の講義を何十回とされていました。何度も同じところを頂いて行くというのも大切なところです。

 これは、上の鈍のテーマかもしれませんが、仏教の本は一度読んだくらいではなかなか理解できるものではありません。その中には誤解も数多くあります。よい本は何回も拝読して初めて意味が分かるものです。『チベットの般若心経』はとても論理的な書物で良書のため、仏教の理解のために私は数回読んでおりましたが、たまたまその著者がこの本の講義をされていたので、一年ほど参加したことがあります。

 その際、そのような論理的な本でも解釈間違いが発生するんだなと思ったことがありました。その先生は、何度も、これはこういう意味ではなくてこういう意味です、と間違えやすいところを指摘しておられました。まあ、そういう勉強を経てやっと理解した心地がしたというか、仏教書とはそのようなものでしょうか。通り一遍の勉強で理解したように思うことが如何に危険であるか。そういう所は注意しないといけないです。


 - 浄土真宗