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仏光寺派のこと

   


 先生は、本願寺派ではなく仏光寺派の家系でした。

 仏光寺派では蓮如上人の御文章を拝読するのではなく、御勧章というものを頂くようです。先生は本願寺派にて得度をされておりますので、御文章も拝読されております。

 仏光寺派で有名な方は、大行寺信尭さんという方がありますが、この方の和讃講義などはとても良いものです。先生の家には、大行寺信尭のものされた書が飾ってあるほどでした。

 瑞剱先生も、それを見られて「大行寺かぁ」と感嘆されたこともあったようです。

 そのため、先生の話は仏光寺派にかかわる話が多かったです。
前の団体では評価が低かった了源さんも、本当はとても素晴らしい方で多分還相回向で現れた方だろうということも先生からお聞きしました。

 実際のところ、浄土真宗の歴史では蓮如上人以前は仏光寺派が栄えていたようで、それは了源さんによるところが大きいようです。

 また、存覚上人と了源さんは親交がございまして、了源さんの願いから、あの六要鈔が書かれたと聞いています。また、覚如上人が存覚上人を勘当される発端になったのではないかと思われる絵系図もこの仏光寺派で考案されたもので、存覚上人がそれにかかわったかどうかは分かりませんが、それを疑われたという経緯はあるのだと思います。それほど、存覚上人と了源さんとはつながりが深かったのでしょう。

 また、仏光寺という名前も特別な意味があります。栄えたものをねたむものが出るのは世の常ですが、その時、お寺の阿弥陀仏の木像が盗まれます。ところが、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光が差し込むという夢を見たという場所に、盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたということで、阿弥陀仏像は戻り、また、そのとき、阿弥陀仏光寺という名前を賜ったところから来ているようです。

 ところが、了源さんは最後殺されて亡くなられました。山の中を歩いているところを刺客に殺されました。ところが、死なれるときに、それを恨まれず、自分が亡くなるのは宿業だから仕方ないが、このものは我を殺して懺悔の心が起きている。このものの罪を許して欲しいと血で自分の服に遺言して亡くなったそうです。その刺客は大変後悔して自分が了源さんを殺しましたと申し出たということです。

 このような話をよくしてくださいました。

 これらの詳しい話は了源上人絵詞をご参照下さい。


 - 浄土真宗