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現代仏教塾なるもの

      2017/03/27


 最近何気に検索をしていたら、表題の団体を見つけました。

 youtubeで、どのような話をしているかも聞くことが可能です。
ちなみに、吉村均さんは、前、本ブログで取り上げた方です。

 講師の方を「さん」で呼ぶなど私の信条と異なるものもありますが、その目指しているところは一目を置くべき内容でしょう。

 今の日本の仏教は中村元氏を代表とした仏教学者に骨抜きされて(後生や前世が否定されて)、出離の心(後生を一大事に思う心)が起きないような状況になっています。これでは出発点にも立てません。

 このままで本当に仏教が滅びしてしまうと危惧していたところに、中村元氏の後輩がこういう事を提唱するのは、皮肉というべきか、ある意味自由というべきか、結局のところ、中村氏の影響力が小さくなったのだな~と思いました。また、最近特に日本に来日することが多いダライラマの影響もあるかもしれませんね。

 さて、三木悟さんが語っている中で、現代仏教で、無記(10無記とか14無記とかいいます)の解釈から後生を否定されたという解釈がなされているという話があります。これは、中村元氏が言い始めたことです。(中村元氏は、形而上学的なことをお釈迦様は語らなかったというのです。これがいわば言葉始めで、お釈迦様は死後のことを語らなかったというようになり、いわば定説のようになっているのです。この学風に触れた学者は多く、今の学者の大部分がこのようなことを言っています。)

 思うに科学信仰の人が仏教を勉強していたところ、死後のことを否定したともとれる文言を見つけて(無記は否定ではなく語らないだけだが)、これを仏教全体に当てはめてしまったわけです。お釈迦様の智慧を今の現代科学とイコールくらいに思ったあたりに間違いがあるのですが、迷信のような地獄などの話をお釈迦様がされるはずがないというような馬鹿のような思い込みの前提から始まった邪見な考え方なのですが、これは、西洋学問や現代科学思想に浸った現代人にかなり受け入れられたのですね。

 私は、これは悪知識による了義解釈の問題だと言えるとは思います(了義・未了義の理解はいろいろでここでいう了義が言葉通りとは唯識学派的な理解ですが)。
 了義、未了義という言葉があります。言葉通りに解釈することができるものを了義ととらえますね。
未了義とは、言葉通りに解釈できないということです。お釈迦様は、対記説法をされたが故に、その説法は必ずしも、どれも同じ内容ではありません。よって、その教義解釈では、どちらがお釈迦様の真意をそのとおり教えたものかを理解していく必要があるわけです。

 日本の学者は、この無記の記述から(これは説明されなかったという事実から)死後の説明などは、後期仏教の挿入と考えてしまったわけですね。しかし、原始教典などにも前世の話などが出てくるので、この解釈はかなり無理な内容ですが、一度そのような定説ができると皆そんな頭に固まってしまっていったわけです。そうして現在を如何に生きるかというような解釈ばかりを行ったのが、現代の仏教学な訳です。

 ところが、仏教では悠久な時間の流れに我々の生命は輪廻を繰り返すことを説いているわけです。
そこから解脱することを説いたのが仏教ですので、解脱の思いが起きない限り仏教を求める気持ちが
起きないわけですね。つまり、解脱という実践論を完全になくしてしまったのが現在の仏教学というものなんです。

 たとえば、浄土教は、死後の世界に阿弥陀仏の浄土に往生することで、解脱を実現するという教えです。死後を否定しては、解脱も否定されてしまいますね。まあ、こんな風に苦しみからの脱却が骨抜きにされてしまうわけです。

 了義、未了義においては、何を基準とすべきでしょうか?
それは、学者の理解ではなく、伝承、つまりお釈迦様からの伝承をもとにしなければなりません。
まあ、私たちは悪知識の解説などに付和雷同せずに善知識である、七高僧の教えに信順すべきでしょう。

 本団体の今後については、少し注目していきたいと思います。


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