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無我と輪廻転生

      2020/03/29


無我と輪廻転生はお釈迦様が仏教を説き始めた時から矛盾なものではないかと思われていた内容です。というのは、無我ならば、業報を担う主体がないことにならないかという素朴な疑問が生じるわけです。

小乗仏教が教える無我と輪廻転生

次は、過去現在因果経の中での、お釈迦様と頻婆娑羅王との対話です。

大王まさに知るべし、此の五陰身、識をもって本と為す。識に因るが故に、而して意根を生ず。意根をもっての故に、而して色を生ず。(乃至)是のごとき観は則ち能く身において善く無常を知る。此のごとく身を観じ、身相を取らず、即ち能く我と我所を離れ、もし能く色を観じ、我我所を離れ、(乃至)是を解脱と名け、もし人是の観を作す能わざれば、是を名づけて縛と為す。法、本、我および我所無し。転倒をもっての故に、横に我および我所有りと計る。実の法有ること無し。もし此の倒惑想を能く断ずれば、即ち是解脱なり。と。。。

その時、頻婆娑羅王、心に自ら思惟すらく、もし衆生有我と言はば、名けて縛と為すと謂わば、一切衆生皆悉く我無し、既に我有ること無ければ、誰が来訪を受く。

その時、世尊彼の心念を知り、即ちこれを語って言う。一切衆生為す所の善悪、及び果報を受く。皆我が造るに非ず。また我が受くるに非ず。(乃至)但、情塵識合するをもって、境において染を生ず。累想滋繁、此の縁をもっての故に、生死に馳流し、備えて苦報を受く。もし境において染無ければ、其の累想が息み、即ち解脱を得。情塵識三事因縁をもって共に善悪を起こし、及び果報を受く。更に別の我無し。

これは、法本無我三事成染説というようです。(出典は中村専精さんの仏教唯心論)

つまり、我があるから、苦楽の報いを受けるのではなく、諸法無我を達観できないために、苦楽の報いを受けるのだと行っているわけです。ここで業の担い手については具体的な説明がありません。

この問題は、釈尊の死後、大乗仏教で大きな課題になっていきます。

中観帰謬論証派の説明

中観帰謬論証派では、固定的な私(我)は存在しないが、単なる私というのは存在するとして、それが業報の担い手であると教えています。

帰謬論証派は、主張がない派といわれ、背理法を使って相手の主張のあやまりを指摘して行く中で真実を明らかにするというものです。龍樹菩薩の書かれた中論の八不中道は、一切法が無自性ということを主張したものです。

不生・不滅

(次は、帰謬論証派の解説書のチベットの般若心経を参考に書いています。)

これは一切法が実体として成立していないゆえに、本来から実体性をもって生じないことを説いたものです。もちろん、一切法は存在し、また、有為法は因や縁によって生じる。ここでいう生じないというのは、実体として生じないこというのです。これが不生という意味です。

龍樹菩薩の『六十頌如理論』にも、「依って生じたものは不生である」と説かれています。

これを月称は、『六十頌如理論注』で、「縁起を見れば、諸事物を自性として縁じ(認識し)なくなる。なぜなら、依って生じたところのものは、映像の如く、自性によって生じていないゆえに」と解説しています。

このように不生とは、実体としての生起を否定し、常辺を排除する立場から説かれています。ここで注意すべきは、因や縁による生起まで否定したら、有為法は全く生じなくなり、断辺に陥ってしまいます。

次に不滅については、不生と同様で、一切法は実体をもって生じないのだから、実体性をもって滅することもないということです。確かに有為法は、因と縁によって滅するが、実体としての滅ではありません。これが不滅という意味です。もし、実体としての滅があるならば、有為法が滅した後には、何も存在しないことになるだろう。中観帰謬論証派では、有為法が滅した状態をも、所作性や事物と位置づけています。つまり、有為法の滅は、因や縁によってもたらされ、効果的作用を有するということです。

不滅とは、そうした断辺を排除する立場から説かれたものです。しかし、ここで、因と縁による滅まで否定したら、有為法は全く滅しないことになり、常辺に陥ってしまいます。

不常・不断

これは、辺執見の否定ということで、小乗仏教から教えられた間違いです。

自我は常住であると考える方、また、我は死後断絶して無くなると考える考え方が誤ったものであることを教えるものです。

不来・不去

根本中論頌の二章に、「行く」ということの行為・主体・対象とも実体として成立しない三輪清浄が説かれています。

不一・不異

車は、部品と同一の自性として認められないし、また別異の自性としても認められない。まず、車と部品がそれぞれ自性として成立していると仮定しましょう。その場合、車の自性と部品の自性は、同一か別異かのいずれか一方であるはずです。しかし、実際には、そのどちらも正しくありません。

もし、同一であるというならば、一台の車の自性は、さまざまな部品のそれと同じく、多様なものでなければなりません。あるいは、異なった部品それぞれの自性も、一台の車の自性が1つであるのと同様に、単一のものでなければなりません。また自性が別異であるというならば、たとえば、瓶と衣が全く別のものとして世間で認められているように、車と部品も各々独立したものとして別々にみとめられなければなりません。しかし、実際には、これらのいずれも正しくないはずです。だとすれば、車の自性と部品の自性が同一でも別異でもないという結果に陥ります。こうなった原因は、最初に仮定した「自性として成立」が誤っているからです。このように全体と部分を否定する方法を離一異性といいます。これによって、自性としての成立を前提にした車と部品の関係において同一と別異の両者が否定される訳です。

否定対象について

中観帰謬論証派では、否定対象を正確に捉えることが大切だと教えています。否定対象を間違えるとニヒリズムに陥ることがあるというわけです。

これは、結局我はなくても私個人がなくなる訳ではないですね。そこを勘違いして私個人もなくなってしまうと思うのは否定対象を間違えた結果であり行き過ぎだという訳です。つまり自性としての我の存在は否定しますが、量としての我の存在を否定する訳ではありません。

阿頼耶識

唯識思想では、阿頼耶識をたてて、それが業報の担い手と考えます。

ここで、阿頼耶識の根拠として攝大乗論では次の文をあげています。

阿毘達磨大乗経の中で、

無始時来の界は、一切法の等しき依たり、此れに由って諸趣あり、及び涅槃の証得あり。

という言葉があり、これを根拠に阿頼耶識があると説明しています。

これは一方で如来蔵の根拠にもなるものです。


 - 法雷窟