仏教と戒律
2017/02/28
戒律は、自律的な戒(シーラ)と他律的な律(ヴィナヤ)に分けることが出来ます。
自律的な戒とは、十善戒を代表として自主的に自分を律して行くことです。
他律的な律とは、集団生活のための規律です。お釈迦様時代は最初から律が制定されていたわけではなく、随犯随制で段々定められていったのです。
また、律には時代や場所が違っても同じというのは難しいものが多くあります。例えば、着るものの規定は、暖かいインドのものを極寒の場所では護ることが出来ないわけです。
さて、チベット仏教では、仏教は戒律を指すと言っています。仏教があるとは戒律があることだと言っているわけです。少し厳しい言い方ですね。その規定によると日本は仏教国では無いことになるのでしょうか。
日本仏教では戒律が育たなかったというか、戒律が定着していなかったという歴史があります[1]これは平川彰さんがよく書いている内容です。
戒律がなくなったというのは仏教精神が保持されず堕落した結果という一面もあるかもしれませんが、それ以上に日本人は形よりも心を大切にする体質があり、これが仏教において形骸化した戒律の価値が奪われていったと考えられます[2]例えば、インドでは密教化の中で堕落した一面がありますが、日本ではそのようなことはありませんでした。
戒律は、インドから遠く離れた辺境の地では保持が難しい現実があります(受戒には四人の戒師が必要であったり)。日本では、戒律を受けることがそもそも難しかったわけです。そうして、戒律は形骸化して行ってしまうのですが、当時の末法思想と出会って「末法ではそもそも戒律が無いのだから、破戒も無い」と言って形骸化してしまった戒律についての存在価値に疑問を提出していきます。
末法には、ただ名字の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。もし末法の中に持戒の者有らば、既にこれ怪異なり。市に虎あらんがごとし。これ誰か信ずべきや。 『末法灯明記』
こうして形式が大事ではなく、本質をつかむべきだという議論が出て来たように思えます。
先にも述べましたが、そもそも暖かいインドで起こった仏教の戒律は、北方(中国)ではそのまま護ることが出来ない規則でありました。僧侶はヒマラヤ山を越えることが出来なかったのです。戒律を護ると死に至るからです。それで、中国に仏教が伝わる際には、インドのお坊さんは、一端還俗して在家になってから、厳しい旅をして、中国に行ってからまた出家するというような形を取ったと聞いています。また、中国ではこの戒律が中々入って来なかった時期があり、法顕は戒律を求めてインドまで旅をしています。戒律を持ち帰っても、やはり南インドの戒律は中国で実施が難しいために、中国では中国独特の戒律が作られて行きます。それを清規といいます。
その中で、面白いのに薬石というのがあります。これは夕飯のことで、インドでは昼食以後の食事(夕飯)は戒律で禁じられていましたが、中国では薬と言って食べるようにしたのです。中国は寒かったため、体を温める等の役割があったかもしれません。インドの戒律の精神だけは護ったということでしょうか。また、行乞だけでは生活が出来ず、お寺で自給自足を整えるための体制なども中国では作られて行きます。
日本の天台宗は、こういう矛盾を真正面から捕らえて、小乗戒から大乗戒(十善戒や三聚浄戒など)に転向して行きます。これなどは、自律的な戒への転向とも言え、本質的転換とも言えると思います。
そういう中で、浄土真宗では、また一歩進めて戒律も守れない凡夫が救われる救済教を開かれて行きます。戒律が守れないような凡夫が救われる教えが在家仏教が説かれていくわけです。
では、戒律は浄土真宗では不要ということでしょうか。
浄土真宗で真俗二諦という考えがありますが、この場合の真諦は、阿弥陀仏の本願に救われる法ということで、俗諦は世俗の法ということになります。阿弥陀仏に救われたものは、念々常称常懺悔で自分の行為を振り返り自然に世俗の法が守れていきます。
仏法は無我にて候 『御一代記聞書』
とありますように、浄土真宗の信者は阿弥陀様に向かって勝他の心の無いままに行われますので、仏教の精神の自ずとかなうところがあるのです。このようにして、自律的に世俗の法(十善戒)が守られていくことが大乗仏教の精神に通じるのでして「日域は大乗相応の地」だと言われるゆえんをここに見るわけです。
『宝性論』に信心と戒律との関係が伺えることが書いてあります。
信心の功徳は、布施の功徳よりも大きく、戒律の功徳よりも大きく、禅定の功徳より大きい。但し智慧の功徳にはかなわない。(意)
これなども読むと興味深いです。
私の先生は「戒律は天地の法則だ」と言われて重視されていました。また、中国での御布教もなされています。
中国などは、形を大切にするところがありますね(中国にはメンツをとても大事にする国民性があります)。中国仏教は日本の仏教僧侶をさして、堕落坊主と批判することが多く、そんな人からとても法を聞く気になれないということになってくるようです。中国仏教からすれば、日本は堕落仏教と批判されるのかもしれませんが、日本には、形よりも心を大事にして、皮より骨を断つといいますか、本質をつかんだ仏教が伝わったところが、その最たる特徴であろうと思います。