吉谷覚寿さんの書いている四義十証
2017/03/27
吉谷覚寿さんの書いている四義十証について書いてみます。
四義
①高祖聖人のお言葉の引用がなく、当流において常に取り扱う平生業成不来迎等の義を明さないで、口伝鈔改邪鈔等に出てくる法門は出てこず、西山家で用いる正覚の一念に帰る、あるいは仏体即行あるいは名体不二あるいは機法一体の義を明かしています。これらは西山家の宗義を述べたもので、今家相承の書にないことは明らかである。
②当流では三願三経三機三往生の法門をもって真実方便を詳らかにしています。改邪鈔本に、「それについて三経の安心あり、そのなかに大経をもって真実とせらる大経のなかに第十八の願をもって本とす、十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす、信心歓喜乃至一念をもって他力の安心とおぼしめさるうゆえなり」とあるけれども、この鈔には真仮分別もなく、願成就をもって信の一念を勧めることもなく、十八願によって正覚同時の一念を立てて、あまつさえ観経の像観と真身観によって安心を建立しており、真宗の書でないことは明らかである。
③当流では他力回向を本としている。往還二種の回向がそれである。その体は本願の名号である。しかるにこの鈔では、この如来回向の義を明さずに、機法一体をもって他力を明かしており、衆生の往生と仏の正覚とを一名号に成就して衆生の往生のほかに仏の正覚もなく仏の正覚のほかに衆生の往生もなく機法一体に成就して願行みな仏体より成就したまへりと明かす。当流の書でないことは明らかである。
④当流では願成就の経意をもって信の一念に往生を定得しその上には報謝の念仏を勧めている。口伝鈔に「一念往生治定の上の仏恩報謝の多念の称名とならうところ文証道理顕然なり」とあるが如くである。しかるにこの鈔では報謝の称名のことは更に明さず、仏の功徳わが身に成じたりとおもいて南無阿弥陀仏と称うるが三心具足の念仏なりという。当流の書でないこと明らかである。
以上の四義はこの鈔が今家の書でないことを明かしているとしています。
十証
(1) 機法一体の文 おおよそこの鈔の始終に機法一体の名目が20箇所ある。その機法一体は衆生の往生と仏の正覚との機法一体であり、願々鈔御文等に示してあるところの機法一体とは天地雲泥の相違があることは逐次文に入って解釈説明する。
(2) 正覚一念の文 この鈔本末二巻に亘り正覚一念の言葉は4箇所ある。十劫の昔衆生の往生の成就したとき仏も正覚を成じたのだけれども、衆生このことわりを知らずして迷っている。しかるに機法一体に成就せしことわりを聞くとき正覚一念に立ち還るという義である。これは今家になきことである。
(3)仏体即行の文 あるいは仏体すなわちわれらが往生の行といい、あるいは摂取不捨の仏体すなわち凡夫往生の正定業というが如きは今家の所説にはないものである。
(4) 意業念仏の文 この鈔本に「念仏というは必ずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみに非ず、阿弥陀仏の功徳われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じたまひけるものをといふ信心のおこるを念仏というなり」とあって、又末に「おおよそ念仏というは仏を念ずることなり」等とこのように文がしばしばある。これは今家の口称の念仏に異なるところである。
(5) 平信の名目 この鈔本に「なにとはかばかしく知らねども平信の人も称ふれば往生するなり」といい、又下根の凡夫なるゆえにそぞろにひら信じもかなうべからずとあり、この平信の名目は善慧坊の述成には出るが、当流にはないものである。
(6) 像観真身観の文 これはこの鈔本に像観と真身観の文を引いて機法一体の証文としている。この像観や真身観の文によって安心を建立するということは今家にはないことである。
(7) 如来浄華衆の文 これはこの鈔本に浄土論の如来浄華衆正覚華化生の文を引いて十劫正覚の心蓮華の中に生ずるという、これは今家の所談にないことである。
(8) 極楽無為涅槃界の文 この鈔末に法事讃の文を引いて無為常住の念仏ということを立てる。機法一体の理りを領解して称える念仏は無為常住なり。機法一体を領解していない自力の念仏は無常転変の念仏なりといっている。これは今宗にはないことである。
(9) 四種往生の文 この鈔末に正念往生狂乱往生無記往生意念往生の四種往生を明かす。これは当流の所談にないことである。
(10) 帰命釈文 この鈔末に「知らざるときのいのちも阿弥陀の御いのちなりけれども、乃至善知識もとの阿弥陀のいのちへ帰せよと教ふるをききて帰命無量寿覚しつれば、わがいのちを無量寿なりと信ずるなり、かくのごとくに帰命するを正念をうとは釈するなり」とあり、この帰命の釈、帰還の義にて今家にはかって依用せざるところである。