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お釈迦様の成道(最後の戦い)

   


 お釈迦様の一代記で一番印象に残る場面は降魔の場面です。

 次は『新釈尊伝』[1] … Continue readingからの引用です。

 手を伸ばし大地を触れる

 魔王は怒りたち、さまざまな怪物を駆りたてて暴力でボサツを屈服させようと企てます。相手はただ一人、見方は強い軍勢といきり立つ魔王の努力もむなしく、ボサツには指一本ふれることもできません。魔王の軍勢がいくらいきり立ってもボサツはただ慈悲の心に満たされていて、少しも敵意を起こさないので、相手も戦いようがないのです。そのうえ、魔王の子である将軍たちもボサツの側に心を寄せるものが少なくありません。

 あわてていきり立つ魔王はたまりかねて自分の手でさまざまの武器を投げつけ、矢を放ち、火の塊を放り出します。しかし物々しい武器も矢もボサツの身辺に飛んでくると、みんな美しい花束となってあたりを飾り、おそろしい火の塊も天蓋となってボサツの頭上にみごとに垂れかかります。ボサツにはぜんぜん敵意というものがないからです。おのれに対して暴力をもって襲ってくるものに対しても、哀れみの心を持っているからです。慈悲は常に暴力よりも偉大であるというのは仏教の通念ですが、仏教のみではなく、インド一般の多くの精神的偉人にも共通した信念です。

 マーラ(魔王)は娘たちを使ってボサツを誘惑することにも失敗し、かつ暴力による攻撃によっても何の効果をあげることもできませんでした。そこで、こんどは世俗的勢力を提供しようと、甘言をもって近づきます。

 マーラはボサツに向かってこう言います。
「仏陀になるとか、解脱を得ようとかいうのはとうていできない相談だ。それよりもこの世の支配者として皇帝になるがよい。さもなければ天上にのぼって私の位につくがよい」

 そこでボサツはマーラに次のように答えます。
「マーラよ。汝はたった一度だけ供養をしたというだけのことで欲界の支配者になったというにすぎない。それに比べると、この私は数えきれないほど多くの生涯において、自分の身体でも持ちものでも、いくたびとなく衆生に施してきた。それだから、今仏陀の位にのぼることができるのである」

 このボサツの言葉を聞くとマーラは、それ見たことか、と大喜びで次のように申します。
「過去の生涯において私が供養したことは汝が今証言してくれた通りだ。ところが、汝のことを証言するものは誰一人いない。口をすべらせたばっかりに、この勝負は汝の負けだ」

 しかしボサツは少しも慌てません。むしろ、マーラやマーラの味方に対して慈悲の心をもって働きかけ、恐れず驚かず、身も心も穏やかに、静かに右手をさしのべます。この手には過去の無数の生涯における善業の功徳がこもっています。その手でボサツは自分の頭をなで、脚をなで、さてそこでその手を伸ばして指先で軽く大地に触れます。そして次のように申します。
 「万物のよりどころであるこの大地、
 動くもの、動かぬものすべてに公平なこの大地が、
 私のために真実の証人になるであろう。さあ私のために証言してくれ」

 ボサツがこう言うと、たちまち大地が東西南北上下に震動し、かつまた大きな音が響き轟きました。そしてスターヴァラー(「動かないもの」という意味)と呼ばれる大地の女神があらゆる装飾を身につけ、もろもろの大地の女神たちを共につれ、ボサツの坐っているところの近くに地面を破って半身を現わし、ボサツに向かって礼拝し、かつこう申しました。
「あなたのおっしゃる通りです。私たちが証人になります。あなたこそは、人間界はもちろん、神々の世界においても、最高の権威者です。」
 こう言ってスターヴァラーとよばれる大地の女神はマーラをひどく叱りつけ、ボサツに敬意を表してさまざまの供養をしてから姿を消しました。これでマーラの計略はまたもや失敗に帰しました。

 この場面と大無量寿経にある阿弥陀仏の成道を天人が証明するところがよく似ています。

 この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。
虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし と。

 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。 自然の音楽、空中に讃めていはく、「決定してかならず無上正覚を成るべし」と。

 重誓偈の終わるところになり、これを法身証誠といいます。法然上人は、この部分を頂くだけでも阿弥陀仏が仏になったのは当然であると仰っています。


脚注

1 渡辺照宏さんの本、私は彼の本が好きであるが皮肉にも彼は浄土真宗の信者ではありません。河口慧海さんも同様で、純粋な仏教信者は得てして浄土真宗が嫌いなようである。

 - 浄土真宗