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滅罪の原理をよく理解すべき

      2017/03/04


 私達は、死を前にして一体どんな事で悩むのでしょうか。
 それは、他ではありません、今までの業の重さに悩むのです。

 ですから、この滅罪ということは大変深刻で大切な問題ということです。
滅罪が出来ないならば、仏教を求める価値がないともいえると思います。

 さて、仏教で説かれている滅罪は大きく二つ

  • 禅定(止観双修)による滅罪
  • 懺悔による滅罪
    (本願力による滅罪は懺悔滅罪の中で考えます。)

 懺悔による滅罪は他の宗教でも説かれることがあります[1]キリスト教では牧師に自分の罪を告白することで滅罪があると教えます。し、法廷などの場での懺悔も実際罪が軽くなるなどの効果がありますので、懺悔の滅罪ということは分かり易いところです。

 私は今の先生に最初に会った頃、このことについて質問をしました。
まず、妄念について質問をしたのを覚えています。

妄念とは分別のことと理解して良いのでしょうか?

 この当時の私の仏教理解の浅いことが知られる質問です。そして、その上で、次ぎの質問をしました。

 どうやら、瑞劔先生の書籍を拝読していきますと、滅罪に二つあると教えてあります。一つが禅定で、もう一つが懺悔です。しかし、この二つの心相は同じように思えません。これをどう会通したら良いのでしょうか?
 簡単に言うなら、懺悔滅罪と禅定滅罪が説かれていますが、これらは、同じではないように思えるが、どういう点に共通性があるのかということです。
初心者らしい質問とお笑いになるかもしれませんが、このようなことも当時よく分からなかったのですね。

 先生に説法を聞いて、本当に最初に帰りの電車で偶然ご一緒した際の質問でした。先生は次ぎのように回答して下さいました。先生の回答は、

どちらも無我という点で共通点がある

というものでした。懺悔でいう所の無我については、ちょうど慢心が無くなったところの無我といいましょうか、蓮如上人の「仏法には無我と仰えられ候、我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」といわれた無我に近いと思います。懺悔している人の心境は、私が悪かったと思う訳で、他人のせいにしたりすることがありません。

私は、この説明に一応の納得はしたものの、少し疑問が残りました。何故なら、懺悔は「私」が悪かったと明らかに我があるからです。ということはもう一段踏み込んだ理解が必要に違いありません。

そのような訳で、それから折りに触れて考えておりました。

滅罪の原理は、感応道交にある(瑞劔先生)

瑞劔先生はこのように教えて下さることがございます。ふと懺悔と禅定について思いをはせた時、ああ、そういう事だったのかと理解出来たのです。

禅定も懺悔も感応道交という点で、共通性があるのです。
さて、感応道交とは、どういう時に起きるのでしょうか。

感応道交は私と仏様との間で起きる交渉です。
天台宗では、感応に次ぎの四つがある[2]また細かく言えば三十六句の感応があると教え、もっと細かく見ていくと六万四千八百もの感応があると説きますと説明しています。顕機顕応(機=感)、顕機冥応、冥機顕応、冥機冥応で、冥に感応があるのは、例えば、お寺の前を通るだけで、我々はお寺から冥に勧化を受けている訳です。これを冥機冥応という訳です。

瑞劔先生は信心のことを「妙機妙応」と教えて下さっています。

さて、この感応ですが、仏様と私というように二つの方面があることを確認する必要があります。この2方面のことを考えないと行けないのと、仏には、三身があり、法身、報身、応身の仏があることも会わせて考えないといけない訳です。

応身としては、お釈迦様しかおられない訳ですが、お釈迦様の勧化力たるや、それを超えた人は、今までにありません。感応の深きこと、他の聖人の比では無かったということですね。

原始経典を拝読してみますと、出会って一言の下で、法眼を得たという表現が沢山でてまいります。これなどは、お釈迦様が人徳的にも、優れていたことを証明するものだと思います。

徳のある人の前で我々は懺悔させられますね。恥ずかしいもの、忸怩たるものがあるという感じになります。これが感応の一種であります。徳のある人との感応は、この応身との感応と通じていますね。

キリスト教もこの原理で滅罪を説いている訳です。キリスト教を信じよという訳ではありませんが、今は無宗教の時代で、滅罪の機会も持たずに生きていることは苦しみが耐えないかもしれませんね。

さて、法身との感応とは、真如との感応であり、真理との感応と言っても良いと思います。これについて、理の辺についたのが、禅定であり、事の辺についたのを懺悔という訳です。

そう考えた時に、先生に質問した答えが解けたようで大変嬉しかった訳です。


脚注

1 キリスト教では牧師に自分の罪を告白することで滅罪があると教えます。
2 また細かく言えば三十六句の感応があると教え、もっと細かく見ていくと六万四千八百もの感応があると説きます

 - 仏教学