全てを語るべきではない
2017/02/20
仏教の指導は難しい、何かしら開発されるものがなければならない。
1~10まで全てを語って、何から何まで説明すると、聞く側は考えようとしなくなります。自ら開発されるものがなければなりません。
仏語で開発する
仏語を持って引っ張り上げるということがあります。
よって、仏語を煩瑣だから使わず、優しい言葉で説明するというような事は極力さけるべきです。
前所属していた団体では、難しいことを言わない、優しく説明することを推奨していましたが、このようなことをしてしまうと、いつまでも難しい概念を説明出来ないことになりますし、また誤解も多いです。
例えば、五蘊を「五つの構成要素」などと説明したら、五蘊をもとにしたその上の五取蘊苦の説明などとても煩わしくなります。また、一つの単語を二つに分解してしまっていいるので概念について誤解を生みやすい状態になりえます。
実際、前所属していた団体では、聞いていた人に誤解が多かったように感じました。
親鸞聖人の『教行信証』は、漢文で書いてありますが、これを書き下して読むだけでも、誤解が生じるケースがあります。修飾語がどの言葉を修飾しているかとか、また言葉のつながりを間違えたりしてしまいます。ですから、漢文は漢文のまま拝読するのが本当はよろしいのです。
たとえば、三願転入の文ですが、
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
漢文では「久しく」の形容詞は、「出でて」にかかっているのに、一見、書き下し文は「万行諸善」にかかっているように見えます。前の会は、これを万行諸善にかかる形容詞と理解して、長い間万行諸善を行ったと理解していました。これなどは、漢文として拝読しないからこんなことになるのです。
最後まで説明しない
説明する際に、全部を教えてしまっては、聞く側は考えることが出来ませんし、そのために深く理解できないことがあるのです。
ですから、全部説明せず大事な部分は説明しないで止めるということが良いと私の先生から幾度か教えてもらいました。
そういう意味では、教育は難しいものだと言えます。「俺が全部教えてやる」という気持ちでは、教育は出来ないかもしれません。何もかも教えてしまったら駄目というのは難しいものです。