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選択本願の行

      2017/03/27


 最近、選択本願念仏集を頂きました。
その中に

稱名念佛是彼佛本願行也。故修之者乘彼佛願必得往生也。

 というのがあります。

これは教行信証の「選択本願の行」と書いてある言葉とよく似ているなぁと感じました。
 ここで、諸仏咨嗟の願を選択称名というように言っている。諸仏称揚とか、諸仏咨嗟、諸仏称名というときは、念仏の意味は現れておらず、選択称名と言ったときに初めて、あらわれてくるものである。

 願成就文では、17願成就文には、

「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう」

とあり、
 その直後の18願成就文に、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」

とあり、ここに名号が出てくるわけです。

 つまり、称名念仏という形は、本願と成就文の中では見ることはできない状況である。

 これが取り上げられるのは、善導大師もしくは、道綽禅師頃からで、観無量寿経から本願文を見たときに、称名念仏を専称することが阿弥陀仏の本願であるという解釈が起きてくるわけである。

 さて、これを法然上人は、称名念仏が、阿弥陀仏が選択摂取された行として説明されている。
念仏は易行にして最勝の行として教えられます。

 高祖親鸞聖人は、これを受けられながらも、称名を名号に巻き上げられ、選択称名と言ったときには、行という意味になり、我々を救う力用のある行という意味になろうと思います。つまり、不回向の行というところです。

 また、教行信証大意に

 第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものなり。

とあることも参考に考えるべきでしょう。


 - 浄土真宗