説法の話、上の説法とは
瑞剱先生の晩年には、先生は瑞剱先生の前座の説法をさせられたそうです。
同行さんから「自分は瑞剱先生の説法を聞きに来たのに、いい加減にして欲しい」というような意見もあったらしく、先生は瑞剱先生に前座をやめさせてほしいとお願いしたようですが、瑞剱先生は、「お前の話を聞きに来る人もおるんだぞ」と言われて意に介さない様子で、ずっとそういう指導をされたようです。
先生の説法は、たとえば法雷誌などを頂いていくような説法で決まったような原稿があるわけではありませんでした。先生はある時、「浄土真宗で、原稿を書いて説法をするというのがあるが、あれは下の説法だ。上の説法は、その時その時浮かんでくる内容を話すもので、原稿を書かない説法だ」と教えて下さいました。
だが、そういう説法はなかなかできないのです。まず、相当の裏付けが必要だからです。いろいろな話を知っている必要があるのと、記憶もしっかりしていなければなりません。たとえばお聖教の引用などもすらすらできないとならないのです。これはそう簡単にできるものではありません。しかし、先生は、いつもそういう説法をされておりました。
いつも「頂いていく」という形式の説法ですね。その時、頭に浮かぶ内容を説明するというのが、いわゆる待機説法のようでして、広島で説法をしていた時に、後で「私が質問しようと思っていたことを今日は説法頂きました」という話がよくあった。と仰っておりました。
私も何度かそのような経験がございました。先生は聴聞を聞く人の顔色を見て、その方の悩みなども感じられるのかもしれません。それで的確に説法をされていたのでしょう。