*

人格の接触

   


 帰依処について次のような言葉あります。

「法および聖者のサンガは究極・最勝の帰依処ではない。法は道の完成をもって終局とするのであるから、筏の如くであると言われる。サンガというのは、三乗に属するものの集団の名称である。如来を帰依処として出離を求めるもので、これから学ぶべきものを持ち、為すべきものを抱えている。ただ一つ、仏たることだけが真実の世間の帰依処である。何となれば、牟尼は法身であるから。」(宝性論)

 三宝の中で、法と僧は、究極の帰依処ではないというものです。しかし、河を渡るには筏が必要なように、解脱には善知識もその教えも信奉しなければなりません。それなしに河を渡ることはできないのです。

 以前に、事々無碍法界というところでも書きましたが、いわゆる感応道交ということがなけねば、われわれは照育されることがないのですが、それは、ただ、本を読んでいればよいのかというと、それは読まないより良いにわけですが、それだけではなかなか難しいわけです。

 瑞剱先生は、師匠との人格の接触が大切だと教えておられます。実はこれは、チベット仏教でも同様のことを教えておりますね。
チベット仏教では、師匠はよく選ぶべきだと教えています。師匠として大切なことは、根気がなく怒りっぽい先生は自分に向いていないなどと考えて選ぶ必要があるわけです。

 私は、仏教学について本を読んで理解をしますが、それでわからないことはその本を書いた人の講義などで理解するようにしました。とくにチベット仏教については、そのようにしました。そうすると誤解や読み間違いなどがあることが知らされました。

 本だけ読んで理解できると思うのは間違いでしょう。まして阿弥陀仏の御心をいただくときに、遠巻きに聞いているだけでどれほどの観化が得られるでしょうか。(障子の外にて、ただ自然とききとり法門の分斉をもつてわかるものではないということです。)

 ただ、今は善知識が稀な時期ですので、私たちは少しでも、信用のおける先生の書籍をいただいていくしかないと思います。

 先生は、「生の説法の良いところは、重要なところを何度も繰り返し説明してもらえるところだ」と仰っていたことがありました。本などは、編集によってそういうところが削除されるので大事なところがわかりずらいということです。

 また、私は先生の録音をとっており、テープ起こしをしたことがありますが、その経験で申しますと、録音ではわからないのが、その時どんなお気持ちで話されたかです。これが録音では伝わってきませんね。たとえば、その時真赤にして怒っておられたのに、それが録音の言葉だけでは伝わってきません。そういうところは、表情だと受けとることが私たちはできるわけです。ですから、聴聞は対面でお話を聞くということは何より大切なのです。


 - 浄土真宗