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因果の道理と差別思想について

   


 そういえば、前いたところでは、因果の通りを盾に人を攻撃する人が散見されました。今でもそうではないでしょうか。。。

 不平等などに愚痴を言っても「あんた自身の業果だろう」というわけですね。
愚痴をいうのもどうかというところはありますが、そんな感じで、何一つ取り合ってもらえなかったことを覚えております。

 この問題は多くのことを含んでいて、どうとらえるかというのが難しいところです。

 今は、ある意味、良い世の中というか、五体不満足を書いた著者が最近ある店の差別行為に憤激してTwitterに書き込んだことで賛否両論がありました。その行為の是非をここでいうつもりはありませんが、これが今の思想を少し顕しているのかもしれないと思ったわけです。「この人はこういう差別のある世の中で、果敢に戦ってきたんだなぁ」と感じたものです。こういう人の努力もあってか、今は差別行為は昔に比べて減っているのではないでしょうか。

 そんなことで、今はこういう業道自然とか、因果の道理とか、前世の報いなどという考え方で人を評価しない点はある意味よいことかもしれません。

 ただ、仏教はどこまでも、業道自然の中で説明がされていますので、仏教の中に分け入って自分を反省するものは、この点を理解しなければならないでしょうか。

御文章は、本当は因果の道理が分からないと読めないんだぞ。と、先生はよく仰いました。

商いをもせよ、漁すなどりをもせよ
とあるのは、それがよいからせよではないんだぞ「をもせよ」と仰ってあるだろう

とよく仰いました。

 さて、前の話に戻りますが、この問題は実は以前の大震災の時にも起きた話で、因果の道理から、大震災はその人の業のためだというのはあまりに惨い言い方で、とても聞くに堪えない内容だったためか、こういう発言をされた仏教学者の方が同業者から大層批判されていました。

 ちなみに、この天災などには、原始仏教と大乗仏教ではとらえ方が異なるところがあるようです。
原始仏教では、天災などは、自分の業果に含めないところがあります。
大乗仏教では、これらを共業といって、自分の業果に含めるわけです。

 いずれにせよ、私たちは、仏教を勉強して自分を反省する以上、自分の今の苦や楽果は、自分の業から来たものであると理解せねばならないでしょう。また、そういう反省の中で、苦が来たら業滅の縁だと思って受け入れましょう。

 御文章の中に「たとえ牛盗人と言われても」というお言葉がありますが、これは、原始経典[1]雑宝蔵経の中に出てくる話です。

 ある村人が牛が盗まれて探していたところ、ある尊者[2]離越(りおつ)尊者が、自分の衣を洗っていたところに出くわしました。それがまるで牛の血を洗っているように見えたために「お前が牛を盗んで、殺したのか」とその尊者を捕えてしまいました。ところが尊者は一切抵抗されず、また、言い訳もせずに捕らわれてしまったのです。そうしているうちに弟子たちが尊者がいなくなったので探し周り、ついに牢につながれた師匠を発見し、尊者はそんなことをする人ではありませんと釈放をお願いして、尊者は牢から出てきたという話があります。それで尊者にどうして何も言わずに捕らわれたのですかと聞いたところ、その時に尊者は過去世に自分が牛を殺したところが見えたというのですね。それの報いが今来ていることも分かって、静かに業果を頂いて業滅をしようとしていたわけです。

 仏教は、こういう業果を懺悔して頂くなかで業滅ということが教えられているのですね。
以前、金剛般若経を唱えた功徳は業果が早く来ることだというのがありましたが、自分の苦しみを喜ばないといけないのかもしれません。

 瑞剱先生はこれを次のように教えています。

お釈迦様は業道を説いて我を払う(意)


脚注

1 雑宝蔵経
2 離越(りおつ)尊者

 - 浄土真宗