ありがたがるな
ありがたがらんでいい、あまりありがたがると(聞くものは)胸くそ悪いわ。
法を讃嘆し、阿弥陀仏を讃嘆せよ。(瑞劔先生)
これは、私の先生が瑞劔先生に教えられたことです。
真宗の信者さんには、とてもありがたがる人がいらっしゃいます。それが信者の模範の言動だと思ってか、そのようにされますね。また、卑下する方もいらっしゃいます。私ほど悪いものはいないと言われて卑下されます。前者は法の深信に通じ、後者は機の深信に通じるように思われるのでしょうか、こういうことが行われるのではないでしょうか。また、機責めのような勧化をされるとどうしても卑下するようになってしまいます。
卑下は、一見良いようですが、実はあまり好ましいものではありません。これは一種の心の病気です。もし、そのように自分がなっていると反省できたら、気をつけなねばなりません。
本当の信者は、法を見れば自分は阿弥陀仏に救われているということが深信させられるので、卑下の心が断ち切られます。機を見れば自分ほど悪人はいないと知らされますので、驕慢の心が断ち切られます。このように卑下も驕慢も無いという、自由な心の境地に入ることが出来るのです。本当の信者は決して卑下などされません。また、驕慢の心もありません。驕慢の無い心を「仏法者は無我にて候」と教えられています。俺がやったというような思いがないわけです。
本当の信者さんの場合は、無我に喜べるのでよいのですが、信者でない人がそれをまねると「驕慢」になってしまい、また、懺悔も同じで、信者でない人がそれをまねると「卑下」になってしまいます。
本当のありがたい気持ちから、無我に讃嘆ができますので、讃嘆はありがたい気持ちの表現といえましょう。また、自分のことを喜んでいる方は、それはひょっとすると、間違ったありがたさかもしれませんので、気をつけなければなりません。
尼入道のたぐいの、「とうとや、ありがたや」と、申され候うをききては、人が信をとる
『御一代記聞書』
仏慧功徳を ほめしめて 十方の有縁に きかしめん
信心すでに えんひとは つねに仏恩報ずべし
『浄土和讃』
このような讃嘆を聞くものが、また阿弥陀仏の本願力に捲かれて行くことになるのです。くるくると名号の力で救われていく、これを「南無阿弥陀仏の独立」といいます。
お釈迦様のように広長の舌相で阿弥陀仏のお徳を讃嘆される場合を広讃といいます。信者の念仏は略讃といいます。信者は讃嘆できるという点において、仏様と「同等の位」に入ることができるわけです。
こんな話があります。ある信者さんが、いつもお仏壇に向かって、讃嘆をされていました。それを聞いていたお子さんが、いつのまにか信者になったという話です。
また、深浦正文さんの本にお母様が遷化される時に、お仏壇を用意してくれと言われて、亡くなられる前にお母様がお仏壇の仏様に深々と頭をさげ、今までありがとうございましたとお礼を申し上げているのを見て、浄土真宗は本当によい宗教だなと実感されたという話がありますが、一緒に味わうべき話ではないでしょうか。