自灯明(犀の角のごとく)
2017/04/11
お釈迦様がなくらなられるときに
自灯明、法灯明
ということを教えられました。
阿難尊者がこれから私は何を頼りにして言ったら良いのかという質問に答えられたお言葉です。
「私が亡くなってからは、他人を頼りにせず自分を頼りにせよ、私が教えた法を頼りにせよ」と仰ったわけです。
この「自分を頼りにせよ」とは、一体どういう意味でしょうか。
阿難尊者はこの教えをどのように受け取ったかを考えて見るとお釈迦様のいわれた意味が見えて参ります。
自分を頼りにせよとは、聞慧や思慧、修慧を含む智慧のことを言っているでしょう。この自分の智慧を頼りにせよと言っているわけです。
これに似た言葉に「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉があります。お釈迦様は、生前よくこのように弟子たちに教えられたようです。これも自分を頼りにせよということに通じますね。
これらを私たちに当てはめるならば、どのようになるでしょうか。これは、私たちの「往生は、一人一人のしのぎなり」(蓮如上人)という意味で理解すべきだと思います。
結局、誰も自分に変わって後生を解決してくれるわけではありません。たとえ他力であっても、自分の業の力で後生へと旅立って行くのです。後生の一大事の問題は自己でぶつかるより他にないのです。
さて、日本の仏教では、自灯明の自は無我になったところの自だといいますね。まあ、これは智慧という風に理解すると間違いではないと思いますが、自己の問題だというところが薄れてしまいます。
また、チベット仏教では、「犀の角のように」ということは声聞・縁覚の人の教えであるとして大変蔑んでいますね。これは論書にもそのような表現があるので仕方ないと思いますが、後生は一人一人のしのぎという点まで貶める必要はないと思います。