仏教半学、頂点を極めてもそれは半分でしかない
2017/02/17
私は、次ぎのことについて先生に質問したことがありました。
第一義諦は仏の因縁法なり
『往生論註』
これは一体どういう意味なのか?という質問です。
その時、先生はこの意味について直接には答えられず、「仏教半学」ということを教えて下さいました。
「仏教は真智の世界まで行っても、仏教を半分しか理解したことにしかならない」というのが、仏教半学ということです。普通、ここまで行くのがとても大変で、行ける人はほとんどいないのが実状だとも教えて下さいました。
仏道は山登りに喩えられます。
禅宗では、頂上まで行ったところを孤峰頂上といい、下ったところを十字街頭といいます。そして十字街頭に出ることを推奨します。
これは、真智の覚りは本当の覚りではないというのが、禅宗の捉え方です。
百尺竿頭(百尺竿頭に一歩を進む)の話しもこれを教えています。
石霜和尚云く、「百尺竿頭、如何が歩を進めん。」
又、古徳云く、「百尺竿頭に坐する底の人は、得入すと雖然も、未だ真と為さず。百尺竿頭に須らく歩を進めて、十方世界に全身を現ずべし。」『無門関』第46則
百尺竿頭に出たところが、向上し得る極致というか、真智を得たところです。
ここまでを向上門ともいいます。ここから、向下門に出なければなりません。
百尺竿頭は頂上なので、この上はありません。もう落ちるしかない訳です。
落ちるというと、分かりづらいですが、それは、そこから、十方世界に全身を現わして、衆生済度に出ることなのです。これが向下門になります。
さて、聖道門では、仏になるまでの道のりを五道、十地として教えています。
五道とは、資糧道、加行道、見道、修道、無学道です。
これは唯識でいう、資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位と同じです。その中で、見道~無学道を十地に配当します。
この七地の位がちょうど、真智の極証で、煩悩障が無くなった位になります。ここから先の八、九、十地を、清浄三地といい、所知障の断滅を行う修行期間になります。この清浄三地は、文字通り向下門でして、既に煩悩障を断滅して、真智の極地に至っているからです。(煩悩障と所知障は宗派で説明が異なります。ここは、帰謬論証派の説明で書いています。)
仏教半学とは、この七地までの学問のことでして、仏教学でいうならば、これは、大変長い期間の修行が必要です。ですから、仏教は気の遠くなる勉強が必要になるわけです。
大無量寿経は、この向下門の教え、つまり法身の大士(清浄三地の菩薩)に対して説かれた教えて言われており、よって、法の真実を説いたものだと言われます。したがって、とても高い位の教えなので、我々凡夫がすんなり理解出来るものではありません。そのため、これを誤解して、聖道門の聖者には、念仏は聖道門の方便の教えだという説明がされることがあります。
注意して間違いに雷同しないことが大切です。