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わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましき事なり

      2017/02/18


実は、自分の子供へのメッセージとして書いています。私は今まで長年浄土真宗の勉強をしていました。

そのため、本も沢山持っています。長い時間をその勉強に打ち込みました。同じ努力を子供にさせるという事も出来ますが、間違えた知識選び(先生選び)をすると淋しい結果になりかねません。

蓮如上人は、『御一代記聞書』の中で

わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましき事なり。
宿善なくば力なし、わが身を一つ勧化せぬ者があるべきや

と仰っています。

この「宿善なくば力なし」は、伝統的説明では「所化の人」をさすものとして、解釈されます。つまり、奥さんが無宿善では力がおばない、という解釈をしている訳です。これは「無宿善の機にいたりては力及ばず」『御文章』から来る説明です。その場合でも、自分を勧化しなければ仕方ないというように説明しています。

しかし、私はこれは「能化の人」の話しではないかと考えています。

『御一代記聞書』は門徒勧化のためのものではなく、お坊さんの指導のためのものでありました。ですから、これは「能化の人(奥さんではなく旦那さんの方)」の無宿善を戒めていると考える方が穏当だと思います。つまり、お坊さんが無宿善では勧化力がないではないかと道理を説明した言葉のように思います。そうして、やっと「わが身を一つ勧化せぬ者があるべきや」と意味がつながってまいります。

己に宿善なくば他を引っ張る力もなし、結局、自分の責任で妻子も同朋の行き先も決まってしまう訳です。どこまで妻子を勧化できるかは最終的には阿弥陀様にお任せするしかないにせよ、ある程度は能化側の責任もあると思います。

会社で中途採用で来た人が遅刻が多かったので指導したことがありますが、その時、奥さんや子供が可愛そうじゃないかと言ったことがあります。この蓮如上人のお言葉は、その話し方に似ているように思います。

そういえば、先生はお父様が信心深い方であったのですが、お母様は真宗の出身でなかったようです。そのため、御法義にうとく、また、母方の実家に帰るとまるで真宗のような法事などがないものですから、子供がてらに馬鹿にしていたと言っておられました。そのようなお母様ですが、最後はお慈悲を喜んでなくなられたということを聞きました。やはり、そういう信仰の深い家にいると少なからずその徳に染まるようになるのだと思われます。

先生はできすぎていますが、私自身が少しでも前に進んで、妻子や他の人を引っ張ることができればと思います。そういう家庭を作りたいものです。


 - 浄土真宗