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二河譬について

      2017/03/27


 他のサイトを読む機会がありました。
二河譬喩の清浄願往生心について信心または願力のことだと説明があります。確かに親鸞聖人はその通りに説明されております。

 ただ、それだから、これを信前で説明するのはおかしいという話がよくされますね。

 しかし、二河譬喩は信前にも通じるのではないかと思うわけです。
ある会の批判のために何か曲がった解釈をしているように思えてなりません。

 これは、譬喩の方では判然としませんが、合喩のところで見えてまいるところです。
というのは、最初の二河譬喩の文は、信前が含まれていない感がありますが、
後の合喩のところで、

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

 という段があり、これは前の譬喩でいうと順番が違って信前を表しているとみられるのです。また、諸の行業を回してというのも、自力回向されていると理解すべきでしょう。(これは、他力の反射、約末の回向ともとらえることはできますが、文面から見るに自力回向とみるのが妥当だと思います。)

 前の譬喩の流れは次のとおりです。

→空曠のはるかなる処にいたる
→さらに人物なし
→多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす
→死を怖れてただちに走りて西に向かふに
→忽然としてこの大河を見て
→念言すらく「この河は南北に辺なく、中間に一つの白道があるものの、狭少である。
次のことで死ぬことに疑いがない。
・回らんと思うと、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。
・南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。
・西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、おそらくはこの水火の二河に堕せん。
→惶怖し、なお、思念する
→われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし
→この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、
→きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん
→西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく
なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれと。
→この遣喚の言葉を聞いて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず
→東の岸の群賊等喚ばひていはく
→きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし
→喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、
→一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。
→善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし

 ここで注目して欲しいのは、比喩の中では、人は二河を信前の状況で渡ろうとしたかどうかです。
まだ、一歩もわたってないようにも思えますし、これだけではハッキリしませんね。

合喩は次のようになっています。
〈東の岸〉娑婆の火宅
〈西の岸〉極楽宝国
〈群賊・悪獣詐り親しむ〉衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大
〈無人空迥の沢〉悪友に随ひて真の善知識に値はざる
〈水火の二河〉衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとし
〈中間の白道四五寸〉衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむる
 貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。
 善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
〈水波つねに道を湿す〉愛心つねに起りてよく善心を染汚する
〈火焔つねに道を焼く〉瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに
〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。
〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説く
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉弥陀の願意
〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。

 とあって、上記の赤印のところは、譬喩と順番が異なり、
あたかも、自力での信前の相が描かれているように思えます。特に問題にした
〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ
が、二河の直後に出てくるのであります。この道は白道を指しているように思えます。

 そうすると、これは信前ということになるのではないかと思える訳です。
 さて、こういう考え方が正しいのか少々調べてみました。

 「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」のもろもろの行業を回してというのを、真宗聖典の註釈では、回転、回捨の意味だと説明していますが、これはどう読んでも回向です。註釈の間違いというべきでしょうか。

 次の法然上人の三心料簡を拝読しますと、これがはっきりしますので、ご紹介します。

白道のこと、雑行中の願往生心である、白道は貪嗔の水火に損ぜられる。
何をもって知るを得る。
釈に云わく、諸の行業を廻して、直ちに西方に向かなりと云々。
諸行往生願生心を白道と聞く。

次に専修正行願生心を願力の道と名づく、
何をもって知るを得る。
仰を蒙むりて、釈迦発遣して指南す、西方また弥陀の悲心に藉って招喚したまう。今二尊の意に信順し、水火二河を顧みず、念々に遺らず、彼の願力の道に乗ず、命を捨てた後、彼の国に生まれることを得る文、已下の文是なり。

 これを読むと、法然上人はかえって白道を信前と味わっておられることが分かります。
 また親鸞聖人は全分他力と解釈されることが多く、たとえば、韋提希夫人の獲信も華座観ではなく、最初の光台現国のときであるとの理解ですので、ここもそのように理解されていると思えば、違和感を感じないところであります。
 よく当相自力体他力という説明があります。自力で一生懸命やっていることも振り返れば他力に他ならないということです。

 ある会の批判の中でこのあたりを批判する人があり、この回してのところが回転などの説明が定説化されていますが、個人的には違和感を感じる批判です。
 ただし、だから、諸善をやりましょうというのもおかしな教化だと思っております。


 - 浄土真宗