臨終説法ができないと一人前ではない
「前いた団体の会長さんは、臨終説法ができなかった」これはその会の退会者の言葉です。
私もそう思います。臨終に説法しても間に合わないと思っているような言動が多々ございました。
ところが、瑞剱先生はよく臨終説法をよくなされた方であります。また、若いお坊さんへ指導をされたことがあったようで、その時に「君ら、臨終説法ができないようではあかんぞ!」と臨終説法ができるようになれと指導されていたようです。
その時、聞いていた若いお坊さんが「先生、それでは一つ臨終説法の手本を見せてもらえませんか?」とお願いしたそうです。先生は「いくらでも手本を見せてやる。しかし、それならば、お前がまず臨終の大病人になれ!」と仰ったといいます。
瑞剱先生のご教化には、臨終説法がたくさんあり、その中でお慈悲を喜びながら亡くなった方がたくさんいらっしゃいます。
「闇の中で阿弥陀様が手を引いて、本願力は大きいでなぁ」
それだけの内容を話すだけで、お慈悲がいただけたようです。
これらの方は化土往生されていた人が、最後に阿弥陀仏の浄土に生まれるために、善知識に会いに生まれてきた人だと聞いたことがあります。こういう人はその一言を聞くためだけに生まれてきたので、短命なのだと。この話は俗説でしょうが、瑞剱先生などを話を聞いていると、この話が真実のように聞こえてきます。