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宗教と道徳の混線

   


次は瑞剱先生の一節です。

 真宗は「道徳」と「宗教」とは、はっきり区別をつけてある。
 道徳は出来るだけ注意して人道を守るべきは、道徳上の責任であるが、いざ、往生極楽と云うことになれば、自分は道徳上破産者であると、深信せなければならぬ。

 五戒、十戒を持てと云うのは、聖道門の云うことで、浄土門は、僧侶と云えども肉食妻帯、無戒名字の比丘であると深信し、五戒、十善は一つも守られぬ、「地獄必定」の我が身であると深く信じて、それを、そのまま、お助け下さる如来の本願力を仰ぎ、仰ぎ切ったのが、信心である。

 他の宗教は、道徳と宗教の混線である。

 真宗は、出来る丈道徳を守るべきことは申すまでもないが事であるが、自分が生死を離れんと思えば、人間の為す道徳位のことでは追いつかぬ。自分は、道徳上破産者であると、深く自覚して、如来の本願力を、仰ぎ信ずるのが、まことの信心である。

 説教で、道徳を守れと教えてくださるのは、あれは、浮世の事で、世渡りするについて、道徳的であれと教えたもうのである。真宗の中心問題は、道徳ではない。信心である。その信心は、自分が道徳上、破産者であると自覚して、本願力を仰ぐのみである。

 道徳を守れと云う説教は、説教の中心問題ではない。中心問題は、お前は、道徳上すでに破産者である、その破産者を救い下さるのは、阿弥陀如来御一人と、「佛心、佛力、本願力」を、仰ぎ信ずることが、説教の中心問題である。

 信心の中に道徳を入れたり、道徳の中に信心を入れたり、混線、また混線では、それは真宗ではない。

 そう云えば、分かったようであるが、世界中の宗教は、道徳と宗教(信心)の混線ばかりである。

 宗教(仏教)は、生死出ずべき道である。道徳ではない。
 道徳は、世渡りする上に於ける人間社会のキメである。

 キリスト教の聖書は、道徳と宗教の混線である。それで「道徳的宗教」「倫理的宗教」と云われる。

 大乗仏教では、道徳上の事は、これを「俗諦門」と云い、迷いを離れることを「真諦門」と云う。「真諦門」は、「戒律」と「禅定」と、「智慧」である。

 浄土真宗で、「真諦門」と云えば「信心」のことで、「俗諦門」と云えば、道徳のことである。真俗二諦のみ教えであるが、混線した二諦ではない。

 聖書(マタイ伝)に、「汝等の行いが、パリサイ、サドカイの人に劣るようなことでは、天国に入るを得ず」と云うのは、是れ即ち「倫理的宗教」である。

 浄土真宗は、「超倫理的宗教」である。浄土真宗の行者の実体は、混線、また混線である。混線しておるようなことで、いくら説教を聞いても信心はいただかれない。

 これなどは、前のいた団体などは宗教と道徳を混線していると云われても仕方ないのではないでしょうか。


 - 浄土真宗