仏教を求める目的
2017/02/17
さて、仏教を求める目的は何でしょうか。
仏教は出離のために求めないといけません。
出離とは輪廻から離れ出るということです。
これを生死出離の一大事(生死解脱の一大事)といいます。
大命、将に終らんとして悔懼こもごも至る
『大無量寿経』
私達はやがて死に直面せねばなりません。結局、その最後に人生が決するのかもしれません。
悔は後悔なので、過去についての思いです。
懼は懼れですので、未来についての思いです。
私達はいつも未来の事や過去のことを考えて生活しています。
その生活習慣は、死ぬまで変えることが出来ないですから、臨終に未来についても考えざるを得ないのです。死んだら死んだ時だという人が多いし、死は忌み嫌うものなので皆考えないようにしていますが、否応なく考えざるを得なくなります。
そして、死んだら無になるとか、そのような感情を度外視した整理では、死の関所は通れないことを考えないといけないのです。
この出離の心が起きたのが仏教の出発点であります。今この後生を否定するような仏教学が高い地位を占めておりますが、そのような仏教学では出発点にも立てないことを知るべきです。
自分の落処はいずこか、ここについて心が定まっていますか?
「帰去来」という言葉がありますね。
帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん
です。これは善導大師のお言葉です。
先生の説法にこんな話がありました。仏光寺派の偉い学者さんが、脳梗塞で倒れて、門信徒の方がその学者さんをお見舞いに行ったときに「きょろきょろ、きょろきょろ」とばかり仰るので、みな、その学者さんカエルになりなさったと言っていたそうです。
そこに大行寺信尭さんがお見舞いに来られて、その時も同じように仰って、ところが大行寺さんには、これが聞き取れたんですね。大行寺さんがいうには「帰去来!帰去来!」と仰っていたそうです。「やはり素晴らしい学者さんだった」と仰られたそうです。
そういうことを考えたら、この「死の解決」ほど、急がなければならないテーマはありません。ところが皆金儲けなどの不急のことに一生懸命でそのために時間を消費しているのです。そのことを毎日反省しなければなりません。
世人は薄俗にして、共に不急の事を諍い、この劇悪の極苦の中に於いて、身を勤め、務めを営み、以って自ら給済す。尊きも無く卑しきも無く、貧しきも無く富めるも無く、少長男女、共に銭財を憂う。有るも無きも同じく然りして、憂いの思いは、まさに等し。屏営として愁い苦しみ、念を累ね慮を積んで、心の走り使いと為り、安らぐ時の有ること無し。田有れば田を憂い、宅有れば宅を憂い、牛馬六畜、奴婢、銭財、衣食、什物も、また共にこれを憂う。思いを重ね息を累ねて、憂いの念は愁い怖る。 『大無量寿経』