戒は何のために行うのですか?
2017/03/02
今倶舎論の根品を勉強しています。そこに楽根の機能として次ぎのような問答があります。
世尊は舎衛国の祇樹給孤独園に滞在しておられました。さて、その時、同志の阿難は世尊のおられるところに近づいて、世尊の両足に頂礼し、一隅に座して、世尊に次ぎのように申し上げました。
-大徳よ、戒は何のためにあるのですか?
-阿難よ、後悔せぬためである。
-大徳よ、後悔せぬとは何のためにあるのですか?
-阿難よ、喜びが生じることのためである。
-大徳よ、喜びが生じることは何のためにあるのですか?
-喜悦を生じるためである。
-大徳よ、喜悦を生じることは何のためにあるのですか?
-軽安のためである。
-大徳よ、軽安は何のためにあるのですか?
-阿難よ、安楽な心のためにある。
-大徳よ、安楽は何のためにあるのですか?
-阿難よ、心の統一(三昧)のためである。
-大徳よ、統一は何のためにあるのですか?
-如実智見のためである。
-大徳よ、如実智見は、何のためにあるのですか?
-嫌厭のためである。
-大徳よ、嫌厭は何のためにあるのですか?
-阿難よ、離染のためである。
-大徳よ、離染は何のためにあるのですか?
-阿難よ、解脱のためである。
-大徳よ、解脱は何のためにあるのですか?
-阿難よ、般涅槃のためである。
阿難よ。有戒の人は後悔しない。後悔せぬ人には喜びが生じる。喜びが生じた人には喜悦が生じる。乃至、身体が軽快になった人は楽を感受する。楽を得た人の心は統一する。
阿難よ、心が統一した人は如実に知り、如実に見る。如実に知り、如実に見る人は嫌厭する。嫌厭した人は離染する。乃至、解脱した人は般涅槃する。
阿難よ、これが法性であり、これが法の等流である。この戒に依り、修習し、反復するならば、最高の段階に赴くであろう。
すなわち、彼岸、ないし、到彼岸である。
一日一善という言葉が昔はありましたね。この一日一善は仏教ではとても大切なことなのです。
ラビ・バトラの『世界恐慌』という本がありました。その中で、ラビ・バトラは禅定を修習をしていたのですが、師匠に禅定を成就するには善をしなさいと指導されたと書いていました。
インドでは、仏教は相伝は今はありませんが、ある程度の禅定のマスターは出来るのですね。
仏教では、このような仏教以外での禅定があることを教えていて、そういう人は神通力も持つことが出来ると教えています。