仏様には、比量がない
2017/02/28
これは仏様の認識についての話です。また、所知障に関係のある話です。
唯識では、所知障は実体視する我々の諦執と言われています。これは煩悩の薫習によるという訳です。能取(主観)と所取(客観)に分けて、この間の線を「取」と考えると、これを繰り返し行う(薫習)ことが、実体視につながるというのは、それなりに説得力がある話であり、私は、この考え方で最初納得をしておりました。また、この実体視は、取(煩悩)に影響がある訳で、実体視されなければ、取(煩悩)は無くなる訳です。そうすると、実体視というのは、煩悩の原因とも言える訳でして、この点は、確認しておく必要がある訳です。
ところが、一方で、唯識では、我執は煩悩障、法執は所知障に配当するため、十二縁起の無明は、煩悩障としています。何故かというと、十二縁起は解脱の妨げになるものだからです。上記の因果関係を認めつつも、無明は諦執ではないというのです。これは少し分かりずらい話しです。上記の因果関係がある以上、実体視するというこの諦執は、無明とすべきではないのか。そうでないと小乗仏教はどうやって、悟りを得るのかという疑問を感じる訳です[1] … Continue reading。
唯識の勉強をした時に感じた疑問は上記のようなものでした。しかし、煩悩の薫習が実体視であるというのは、それなりに理解しやすい説明であったこともあり、この疑問についての検討はかなり迷走いたしました。いろいろ悩んでいたところ、この疑問を解いてくれたのは、チベット仏教の帰謬論証派の説明でした。この学派では、実体視する我々の諦執を煩悩障に配当します。つまり、無明の説明を諦執とする訳です。この派では、法執も我執も結局、同一の諦執に帰着します。よって、この学派では、法執より我執の解決が先であるという論理はなくなるのです。
この説明は上記の無明の説明はよく分かりますし、この考え方を私は支持します。ただし、その場合、所知障のものがらが変わって来る訳です。
所知障とは一体何の事でしょうか。論書などでは、所知障とは、無染汚の無明であり、煩悩障の薫習であると説明しています。こういう点は、どの派でも同じになります。
煩悩障の正体を実体視することだとすると、その薫習とはどういうものなのでしょうか。次ぎのような説明をしています。煩悩障がなくなると、諦執はなくなるが、薫習によって、顕現境に対して迷乱を起こす心が生じると教えています。[2]チベットの般若心経、p200参考のこと
諦執が無くなるとは、幻の如き空性を体感することをいうことになる訳で、迷乱は何かという話しですが、これは、真智と権智が同時に動く仏に対して、清浄三地の菩薩は未だ同時に動かないという点で、迷乱が起きていると言っている訳です。
難しい話しはこれくらいにして、さて、所知障がある私達は現量[3]現量は直感と言ってもよいもので、ここでいう現量は、瑜伽現量などとも言われます。で認識が出来ず、比量[4]比量は、推量のことです。によって、推量して考えるしかありません。ところが、仏様になると一切の所知障が断滅されるので、一切を現量で認識が出来るようになります。
つまり、仏様には、比量がない訳です。阿弥陀仏は、私を現量で直感的に認識して、見てござる訳ですね。
また、仏様には再認識もないと言われています。仏様は三世を見通す智慧をもっており、過去の事も現量で分かるためです。
浄土真宗では、同じ話を聞いてもはつごととして聞けと言われますが、これは再認識が無いという話しと少し似ており、面白いと思いました。