多くの人が狸
2020/12/09
説法する人に狸とキツネがいると申します。
自分の誤りを知っておりながら他人をだましている人をキツネといいます。キツネは大層悪質です。詐欺のようなところがありますから。
一方、狸は自分は人をだましていることに気づかず、自分はよいことをしていると思っている人をいいます。
宗教を志す人の中にはキツネが大層多いです。新興宗教の教主は下手をすればこの部類に入ってしまいます。オウム真理教などはその例でしょう。
浄土真宗はもともと親鸞聖人を祖師と仰いでいるため、今時の新興宗教のようなキツネは少ないと思うのですが、自分が最低限キツネになっていないかはよく反省しないとなりません。
そして、多くの僧侶は狸であるといわれています。自分が仏教をあきらめずに仏教を説くのはこの狸でしょう。自身は決して悪いことをしていると思っていませんが、同朋を悪趣に導いてしまうので、大変罪深いです。
私は前所属していたところの先生は、キツネだと思いました。自分の間違えを自覚しながら、それを訂正もできず、信者を騙している。これは大変罪深いです。私はそのように思えたので、その所属していたところを離れました。
ただ、振り返れば、そこで教わった基礎は大変役立っていると思えるので、そういう点では、決して悪いことばかりではなかったのですが、もしそこのリーダーの方で問題点を自覚されているなら、自浄作用が働くことを願うばかりです。
さて、同朋の僧侶の方には、自信教人信を何よりもベースにすべきこと。しっかりとお聖教を読まれること。何より根本の誤りは誰もが死んだら浄土に生まれると思い込んでいることです。そんなはずがないのです。
以前いた団体は、逆に一切衆生必堕無間と言っておりました。これも因果の道理を無視した説明です。こんなことがあるはずがありません。ただ、自分が地獄に落ちかねないありさまだというのなら、うなずけます。しかし、言葉が過ぎるのです。
誰もが死んだらお浄土に生まれるというのは、あまりに聖人の教えを無視した考え方です。真宗の御門徒さんがすべて死んだら決まって浄土に生まれるはずもありません。あくまで安心で往生は決定するのです。そして、易往而無人で、浄土に生まれる人は少なく、そうでない人数が多いのです。信心決定する人は、国に一人、郡に一人あるかどうかの稀有な方なのです。わたしの先生も生死の問題に驚きをたてて、それから20年一生懸命やって信心決定できたら速い方で、一生涯かかる人もいるというくらいの極難信だと説明されました。
ただ、お寺さんは亡くなられた御門徒さんの後生を安直に六道輪廻というわけもいかず、お浄土に生まれたというふうに言わざるを得ないのは心情的には察します。また、安心は心の問題で推し量ることができない以上、そのように推察するしかないし、それは悪いことではないと思います。
しかし、それを教義の中心に据えてはいけません。そのようにしてしまっているから、今の浄土真宗は破滅的に衰えてしまっているのです。
このころの指導者は、みなが浄土に生まれるという前提から、十劫の異安心やタケノコ秘事のような異安心に毛の生えたものばかりで本当にそれで後生の覚悟ができるのだろうかとしみじみと思います。そもそもそんな安心で相済みできるのは後生について悩んだことがないからでしょう。後生に驚きが立つとは、死の問題に直面して真剣にこれを解決しようと思うことです。そうしてみると初めて善知識を探そうと思うようになります。
少々過激なことを書きました。少しでも改善されればと願うばかりです。