妙好人である父親は頼むように子供に信仰を勧められた
2017/03/03
これは『前田慧雲師語録』[1]瑞劔先生が仏教に志したのは前田慧雲さんの話を聞いたからだと聞いています。からの抜粋です。(現在仮名遣いに直しています)
前田慧雲さんは、説法をするにも、
かって私が藝州[2]今の広島県の糸崎[3]海沿いのところのようですというところへ行って、ある寺で三日ばかり話をしたことがあるが、一番終いの日に、その寺の住職が、
「どうぞ今日は終いのことでありますから、学校の校長と村の村長の二人を特に別室に呼んで、信仰の話をして頂きたい。」
ということで、直ぐさま呼びにやった。ところが、校長は止むを得ぬ差し支えがあったので、代わりに教員が来た。そこで村長と教員と住職と、三人が私の前へ出て、さてどういう口切りにしようかと思っていると、先ずその住職が進み出て
「平日あなた方は、宗教の方をお世話下されて誠に有り難い。これで、学校の方も家庭の方も妨げなくて、誠に有り難いことである。併しながら、私の眼から見まする時は、あなた方の仏教のお世話をなさるのは、利用主義で、村を治める道具になるよう、学校を治める道具になるようという、お世話の仕方であらうが、それでは実に残念である。それではご自身に何の利益もないことである。
幸いこの度先生もみえたことであるから、平生何かご不審なことがあるならば、どうぞご遠慮なくご質問をなさい。どうぞ将来は、ご自身々々々に信仰を得て、その信仰の上から宗教のお世話をして下さるということにしたい。」
という口切りである。それで私もそれに就いて、信仰の話をしたのであるが、然るところ、その話をしかけると、中ば後から学校の教員が頻りに涙をこぼす、初めは手拭で顔を抑えていたが、終いにはもう堪らぬようになって、そこに俯向いてしまった。私も、不思議な男もあるものじゃ、何も悲しい話も情けない話もしたのではないに、どういう訳で泣くのであろうと思って、一向訳が分からぬ。随分神経質な男であるわいと思っていた。やや暫く経つというと、その教員は漸く顔を上げ容(かたち)を正して申すように
「今日はあなた方のお話に就いて、私は非常に感じた。というのは、ありのままのお話をしなければ分かりませんが、私の父は私の家へ養子に参った者であります。そうして仏教を深く信じた至っての信者である。
然るに家付きの親すなわち舅と姑というものは信仰というものがなくて、舅の方は随分邪慳なものであった。村でも評判な邪慳なものであった。そこで私の父は、何とかしてそれを信仰に入れようというところから、朝から晩まで信仰の話をした。私どもが子供の時に聞いておっても、丁度木に竹を接いだように思われた。何ごとかものを言いかけると、直ぐにそれへ宗教を持って行って話をする。終いには野へも山へも従って話をした。その結果、とうとう家の舅姑というものは信仰に入って、死ぬときには非常に喜んで死にました。
それほど私の父は信仰者でございましたから、親に対してそういう様に信仰を勧めたばかりではない、私どもの極幼い時分から、毎日々々信仰のことを勧めました。どうぞ此の信仰をして呉れと、頼むように言うて私どもに話した。そこで私はその宗教という側から信仰をもち、信仰の上に於いても、非常に尊くも有り難くも思うて、誠に愉快に思うていたことであります。
学校に参るようになりましても、お寺のお勤めが始まっているとか、説教が始まっているとかいう時は、そのままその前を素通りをしたことがなかった。必ず本堂に参詣をして行ったものであります。
然るに近頃の学問をして、種々な書物を読んでみると、どうも昔有り難かったものが、何やらおかしい感じ妙な感じが起こって、強ち信仰を失ったというのではない、矢張りありはしまするけれども、どうも昔のような具合には行かぬ。何やらおかしい変な疑問やら愚痴が出てきて、以前のような喜びもなく、愉快な感じもないという次第である。
これは何とかしなければならないことであると思いながらも、今日まで過ぎたことでありまするが、今あなた方のお話を聞いて、自身は深く親のことを思うて感心した。親があれ程精神籠めて、あれ程頼むようにして信仰のことを勧めて呉れた。それにも拘らず、未だほんまの信仰を得ることが出来ないのは、父に対して実に済まない訳であると感じましたところから、思わず知らず落涙をいたして抑え切れず、誠に失礼な姿を見せました」
と懺悔話をした。私もそれを聞いて初めて訳が分かったのであるが、かように親からの信仰を勧められるということは、非常に有り難く思わなければならぬことであろうと思うのである。
ここで知らされるのは、幼年の頃は仰信しやすかった仏教が、勉強をするにつれて信じられなくなっていくという話しです。私達は勉強の弊害ということも知っておく必要があります。