仏教は排他思想なのでしょうか
最近、とある南伝仏教のサイトおよび、そのサイトの事務局長さんのツィートを読む機会がありましたが、驚くほど排他的発言であったため、眉をひそめました。仏法者ならば、もう少し他人を思いやりながら発言すべきでしょうが、そういうところがない発言は、どれほど正論でも読むに耐えないところがあります。
そうは言っても、私も以前排他思想が強い団体に所属していて、そのような排他思想に浴したことがあります。そのため、そういう人の気持ちも分らなくはありません。そういうところに所属していると他の反対な思想を許容できなくなってしまい、それを批判することに罪悪も感じなくなってしまいます。
それでいて、そういう人が排他的な団体を訳あってやめるような場合もありますね。私もそういう人の1人であったわけです。そのような場合、自分の正当性を保つためか、今度はその団体を批判しないと自分が保てなくなってしまいます。
その結果、批判してはならない正しい思想までも否定してしまっている人を散見します。悲しい現実がありますね。排他思想には、論理構成として自分達が正しくなければならないという論理で構成されるわけですが、多分にメンツで構成されている面がありますね。
私も多少なりとも前団体の排他思想の影響は残っており、例えば、キリスト教などのいわゆる外道(邪という意味ではなく、内道に対しての外道)への嫌悪感は今でも強いものがあります。
果たしてそれが正しい考え方なのかということは自分自身反省すべきだと思っています。
チベット仏教では、これらの思想も、人間の心を大切にした考え方として大切にするべきだとしており、批判的なことは言いません。
お釈迦様も例えばジャイナ教などは大切にされた状況がありますし、多くの外道の人もお釈迦様の話を聞きに来られていて、それを排除されませんでした。
瑞剱先生は、聖書を新旧ともに暗記する程勉強されていましたし、そういう意味では、排他思想というのは仏教に似合わないのかもしれません。