宿善とは本願力の顕れにほかならない
2017/03/04
かきつばた 必字必字の 法のはな
(瑞劔先生)
これは瑞劔先生のお歌であって、「かきつばた」の花の絵を描くときに「必ず」という字を書いて、茎と葉を長く描けば「かきつばた」の絵が完成します。絵の中心となる花の部分の「必ず」を「必字(ひつじ)」と読ませています。
これは、阿弥陀仏の本願は「必ず私達を救う」と誓われたもので、その誓いどおりに私達は救われて行きます。かきつばたを見るにつけても、阿弥陀仏の本願を味わわれた瑞劔先生の法の味わいが偲ばれるお歌です。
この歌は、私の先生のお話を一番最初に聞きに行った時に、教えて頂きました。その時に関連で宿善の説明もありました。宿善の善は自分のやった善ではない、善とは仏様の事だとも教えて頂きました。
調熟の光明に育てられて我々はいつか、必ず阿弥陀仏の本願(摂取の光明)に救われる訳ですが、そこには時間の遅速があります。よって、已今当の往生があるわけです。
宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
『御一代記聞書』
宿善は、その調熟の効果が機に顕れてくる辺を語った言葉だと言ってもよいわけです。
私達はどうやって阿弥陀仏の本願を知るべきなのでしょうか。この宿善で知ることが出来るというべきかもしれません。