ゆるされて聞く、信じて聞く
2017/02/20
聴聞について、親鸞聖人は、教行信証行巻の中で、
宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。人の命まれに得べし。仏、世にましませどもはなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ(行巻)
と、その中の「聴聞」という字の左訓に、「ゆるされて聞く、信じて聞く」と書かれています。
「ゆるされて」というのが、何か自分のような資格もないものが許されて聞かさせて頂くというような読み方も可能です。ただ、そのような差別的な用語が真宗の中であるようにも思えませんし、信じて聞くという言葉と対比した場合に、意味がかなり異なってまいります。
そのように、「ゆるされて」という言葉がどういう意味か、判別しがたく悩んでおりました。本件は、特に私の先生の教えの中に出ている風でもありませんし、『教行信証大系』などの書籍でも触れられてありません。
本件、あきらめかけておりましたが、実は、『観無量寿経疏』を拝読していて、そのようなニュアンスを見つけました。そこで、親鸞聖人の書かれた『観無量寿経集註』を拝読してみますと、似た表現が幾つか見ることが出来ました。そこで、以下に分かったところをまとめておきたいと思います。
まず分かったことは、
「聴」の字は、そもそも「ゆるす」と読めることです。そうしますと、「聴聞」で、「ゆるされて聞く」とは、聴の字を読み下しているだけということも言えます。この読み方は善導大師の『観無量寿経疏』の中にあります。
親鸞聖人の『観無量寿経集註』の中に「勅聴許説」[1]諦聴諦聴 善思念之の説明においてという言葉が出て来ます。ここでいう、勅聴は仏が 韋提希 ( いだいけ ) に聞くことを命じることになります。また、許説は仏が韋提希の願いに応じて法を説くこと、になります。
それで聴の字をゆるすと読む場合の意味について調べてみますと、「勧告や意見に従うこと」という説明がなされています。
「ゆるされて」とは、「勅命にしたがって」ということで、これが「信じて」に通じるわけです。
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脚注
↑1 | 諦聴諦聴 善思念之の説明において |