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日本仏教学の問題点

      2017/03/02


 日本の仏教の学問はまるでおかしな方向に向かっています。

 今に始まったことではありませんが、徐々に拡大しており、もはや回復は難しいところまで来ています。

 よって、仏教学者に善知識(先生)はいません。学者は後生を否定して、仏教が指摘するところの断見外道になってしまい、邪見な人を育てる手助けをしています。これは悲しい現実です。

 原因はいろいろあると思いますが、

 仏教の研究は学問としか捉えず(名声のためにしか考えておらず)結局のところ解脱を目的としていない。仏教を文献的あるいは科学的に解釈するようになった。

 ことに問題があるように思います。

 また、西洋などの仏教研究では、今苦からの脱出、いわゆるヒーリングというテーマで仏教が見直されています。その方法論をチベット仏教などに求めるようになってきているのですが、日本ではこのようなアプローチも未だないようです。

 仏教の高みはあまりに遠くいかに研究してもそこに到達できないという問題はあるかもしれません。そのため、はなから諦めてしまっているということはあろうと思います。

 しかし、浄土教は上記のような問題はないわけで、しっかりと勉強すれば、そのまま信心につながりえるものなのですが、このような傾向は浄土教の学者にも蔓延していることは悲しいことです。

 何故、このような状況がよくないのか。

 仏教は解脱の方法を教えたものです。如実に修行すれば、この世の苦しみから解放されます。この解脱論を中心に研究すべき学問なのです。それを忘れた勉強は仏教のめぐみにならないと思います。

 さて、解脱論でとても大切になるのが、次の三つの心です。
出離、菩提心、智慧です。これはチベット仏教の「道の三要訣」の中で説かれているものです。

 これは解脱のための方法論として説かれたもので、聖道門に限らず浄土教とも共通しています。つまり、生死出離の一大事に驚いて仏教を求めて、深く帰依したところに、浄土の菩提心を起し、浄土に往生して仏の智慧を証得するからです。

 この出離の心や菩提心は、今の学者のような仏教理解では決して起こしえません。結局のところ仏教の勉強をしながら、解脱の方法を破壊しているということなるのです。
 きっと、この問題を真剣に考えていないのではないでしょうか。まさか仏教の研究をしながら、仏教を破壊しているとは思っておられないのではないでしょうか。

 出離の心は、後生悪道に落ちかねないという不安が基礎になくてはなりません。この心なしに出離の心はおきません。
現在の学者のように、後生を否定してしまっては、この出離の心が起きえないのです。つまり、仏教の出発点にも立てません。また、後生を否定すると、因果の道理を否定する邪見な心になりかねなくとても危険な思想を持ちかねません。邪見の心は堕地獄の種になります。

 また、菩提心も聖道門にあっては、その修行論は、悠久なる過去世に心を巡らすところから始まります。そして全ての衆生が昔自分の母だった時があると観じて、菩提心を起こす訳です。この修行論などは過去世を否定していては成立しません。

 いつか賢者が日本仏教のこのような状況を打破してくれると思いますが、気づいたものが声を上げなければそういう事にはならないと思います。

 さて、よく言われるお釈迦様が後生を認めていない根拠として出される十無記の話しですが、これはお釈迦様の応病与薬の一つで、いわば不了義(言葉のままに受け取るべきではない)のお言葉です。

 お釈迦様の教えには、不了義な教えが多いため誤解をしてしまいがちなので、仏教を勉強するものは気をつける必要があります。学者はこれに自分なりの解釈をした結果、少しでもつじつまが合えば(それが権威のある学者の説だの場合など)と定説のように扱われ、ここに書いたような状態になってしまう訳です。それと、後生があるなどと考えるのは、インテリ層には許せないのでしょうか。もしかしたら、まるで迷信のように思えるのかもしれませんね。

 また学者の方は、不思議とお釈迦様には、迷信が無いはずだとか、また科学的な推論をされていたはずだとか、不思議な近代科学思想絶対の迷信があるようで、たとえば、お釈迦様が前世や後世を肯定されるはずがないとか、そういうある意味迷信にとりつかれているように思えてならないのです。

 中には真摯に仏教の謎を解明しようとされている学者もいらっしゃるので、ステレオタイプ的に決めつけるものではないと思いますが、こういう学者が多いのは事実でしょう。

 さて、この問題を解決するのはどのようなことが大切なのでしょうか?仏教では、これについて四依ということを教えてあります。

法に依りて人に依らざるべし、
義に依りて語に依らざるべし、
智に依りて識に依らざるべし、
了義経に依りて不了義に依らざるべし
『智度論』

 仏教は知識で理解せずに、智慧で理解すべきです。
 これは、智慧で見た世界こそが真実だということで、経・論・釈によるべきだということです。
仏教は帰納法ではなく演繹法で説かれています。「智慧で見た世界がこうだから、こうだ」という説かれ方です。「帰納法的論理追求の結果としてこうだ」ではないのです。

 そのため、この智慧の相伝である伝統的仏教教学が大切で、仏教は如何に理解すべきかをしっかりした相伝のもとに理解しなければなりません。その手ほどきの中に了義経が何かということがあるわけで、決して目新しいことをいう学者の判定が了義の解釈ではない点を注意しなければなりません。

 大乗非仏説が龍樹菩薩の時代にインドでも問題になりました。その時の龍樹菩薩の答えは「これほどの真実が仏説でない筈がない」というものでした。仏教は智慧で理解できるので、歴史学的証明や科学的証明を待たずに確信が得られるものだからです。


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