お釈迦さまの御生涯
2020/03/29
このお写真は、大英博物館所蔵のお釈迦さまの肖像で、法雷会館に飾ってある像です。どうやら、後世の画家が描いたもののようですが、特殊な能力があって過去のことが目に浮かぶ方で、目に浮かんだ仏陀像をそのまま描いたものらしいです。瑞剱先生は、この像についてとても目が優しいと仰っていたそうです。
仏とは、悟りの名前でありまして、この上がない悟りなので、無上覚とも申します。この地球上で有史以来、仏の悟りを開かれたのは、2500年ほど前にインド平原の北部、ネパールの国境付近のシャカ族の王子として生まれられたお釈迦さましかおられません。お釈迦さまとはどういう方なのでしょうか。瑞剱法師のお釈迦さまの一代記がありましたので、ここで紹介しながら、少し補足したいと思います。
(1)お釈迦さまの誕生
釈尊が、生まれられたのは、西紀前五六五年四月八日であった。釈尊は、釈迦族の王、迦毘羅(カピラ)城主、浄飯王(シュッドーダナ)を父とし、摩耶(マーヤー)夫人を母として、降誕せられた。幼名は悉達多(シッダッタ)と言った。摩耶夫人は、釈尊誕生後七日にして、世を去られた。それで姨母の摩訶波闍波提(マハープラジャーパティー)に依りて、養育せられた。天上天下唯我独尊
お釈迦さまは、シャカ族の尊者という意味で、釈尊とも呼ばれています。だいたい紀元前5世紀頃の生まれと言われていますが、明確な年代は分かっていません。お釈迦さまの没年は、アショーカ王の即位年を基準に推定されていますが、北伝と南伝で100年ほどずれがあります。カピラ城は、東西に80キロ、南北に60キロほどの大きさで、隣国のコーサラ国の属国でした。王さまの名前からも分かるように、稲作を中心とした共和制の農耕国家でした。
マーヤ夫人はある夜、天から六牙の白像がおりてきて右脇から入ってくる夢をみて懐妊しました。お産のためにコーリヤ国(マーヤ夫人の実家、コーリヤ族と釈迦族は同族関係にあったようです。)に帰る途中でルンビニー園に立ち寄りました。四月八日は、春で花が一面に咲いておりました。
池のほとりを散歩していた夫人が真っ赤な花をつけた無憂樹の木に誘われ、その一枝を折ろうと右手を伸ばした時、一人の男の子が誕生したのです。
お釈迦さまは生まれた直後に東西南北に7歩づつ歩いて、天と地を指さされて「天上天下唯我独尊、三界皆苦我当安此」と言われたという話は有名です。これは三界を安んずる使命をもって生まれ出たという宣言であって、象徴的な表現ですが、生まれてすぐに、アシダ仙人がお釈迦さまを占った際に、お釈迦さまを見るなりハラハラと泣かれました。その理由として、この子は転輪王か仏陀になる相があるが、きっと仏陀になられる方であろう、私はもう死が近くこの方の教えを聞けないので、思わず涙がこぼれたという話は有名であり、そういう奇瑞が幼くしてあったことは確かだろうと思われます。
(2)幼少期と出家
七歳の時より、学術・武芸を習学し、その道に通達せられた。太子十九歳の時、耶輸陀羅姫(ヤショーダラー)を妃として迎えられた。一子羅睺羅(らごら)を設けられたが、深く無常を痛感し、二十九歳の十二月八日の夜に、従僕車匿(チャンダカ)を連れ、白馬犍陟(けんじょく、カンタカ)に乗って城を出で、ヒマラヤ山の麓に到り、剃髪して沙門となられました。
耕転祭
浄飯王はお釈迦さまが立派な王になるように英才教育を施されました。しかし、お釈迦さまは、アシダ仙人の預言通り、内向的で瞑想を好む青年に育っていきました。耕転祭の時、田畑の虫を小鳥がついばみ、その小鳥を鷹が捕らえるのを見て、弱肉強食の道理を悟り、一人瞑想をされたと言われます。その時の瞑想の姿があまりに尊崇であったため、浄飯王や摩訶波闍波提が瞑想しているお釈迦さまを拝まれたという話が残っています。浄飯王は、お釈迦さまに世の中の苦しみを出来るだけ見させないようにしました。そのため、季節ごとの御殿を造って歌舞音曲をもって楽しませたり、太子が城を出る際は城をくまなく掃除させて悪いものを眼に入らないようにさせたりしました。四門出遊の話は、そうした浄飯王の努力にもかかわらず、どうしても無くせなかった老病死にかかわる逸話です。
四門出遊
ある時、東の城門から出られた太子は、年老いて腰が曲がって杖をついて歩く老人を見ました。人間誰しも、このように老いていかなければならないという老苦を実感されて憂鬱になられて城に戻ってしまわれました。またある時、南門を出られると、病人が苦しみさまを見られました。人は病むという病苦を実感されて、また憂鬱になられて城に戻られました。次に西門から出られた時、葬式の行列を見られました。「ああ、人は誰でも死んでいかなければならない」と死苦を深く実感され、「人は何故生きていくのだろう」と生きる理由を考えたと言われます。最後に北門から出られた時、出家した僧侶を見て、その尊い姿に感銘されて、人はこの出家者のように老病死苦を超える真理を求めるために生きるのではないかと強く思うようになったと言われています。結婚と一子の誕生
お釈迦さまはヤショダラ姫と結婚され、子供を作られました。これは、浄飯王のためにお城の跡継ぎを残すためだったと言われています。子供が生まれてやっと機縁が熟したと思われたお釈迦さまは、出家を決意されるのです。 お釈迦さまは、悟りを開かれてから何度もカピラ城に戻っていますが、最初に戻った際に、ヤショダラ姫は子供のラーフラに、お釈迦さまがお父さんで、お父さんのところに行って、宝が欲しいと言ってきなさいとけしかけたと言います。ラーフラは、お釈迦さまのところに行って宝物が欲しいとおねだりしました。するとお釈迦さまは、ラーフラに本当に宝物が欲しいか聞かれたあと、それならばというので、ラーフラを出家させてしまうのです。出家の決意
お釈迦さまが出家を決意されたのは、季節の御殿で過ごされていた時だったといいます。ある夜、歌舞音曲を演じていた美女たちが、あられもない姿で寝ているのをみて「騙された!」とこの世は綺麗なものではなかった、こうしてはいられないと思って出家を決意したという話があります。お釈迦さまはお弟子や信者に歌舞音曲を禁止されました(信者には八斎戒の中で禁止されました)。これは、お釈迦さま自身がこの歌舞音曲によって、無常を忘れて生活をされたことがあったからだと思われます。
(3)ご修行
毘舎離城の跋迦婆仙、摩掲陀国の阿羅羅仙等を訪い、教えを聞いたが、その説に満足せずして、尼連禅河の東岸、優留頻羅(うるびんら)村の樹林(苦行林)に入りて、具さに苦行を修す。そこで苦行せられること六年。痩せ衰えて、骨と皮とになられた。師匠を探す
お釈迦さまが最初、苦行外道の師、バッカバ仙人を訪ねられたと言われています。どうしてそのような苦行をするのですかとバッカバ仙人に尋ねると「苦行によって天人に生まれるためだ」と答えました。その答えにお釈迦さまは満足されずに、次にマカダ国のアラーラ・カラーマ仙人を訪ねています。アラーラ仙人は、空無辺処という境地を教えていたと言われています。お釈迦さまは、この境地にすぐに到達し、アラーラ仙人からは後継者になるように依頼されますが、お釈迦さまは空無辺処は真の解脱ではないと思われて、彼の依頼を断り、彼のもとを去っていきます。その後、お釈迦さまは、ウッダカ・ラーマプッタ仙人の元を訪ねて、非想非非想処という境地を教わりました。お釈迦さまはその境地もすぐさまマスターしてしまいます。ウッダカ仙人もお釈迦さまに後継者になるように依頼されますが、お釈迦さまはやはりその境地が真の解脱でないと思われて、お断りになります。それからは、無師独悟で悟りを目指されるのです。私達は仏教を求める上において師匠を探すことはとても大切です。師匠の五分の教えは三十年の独学に勝ると瑞剱先生は教えておられますが、私達はこの点お釈迦さまがお師匠さまを探されたことを真似る必要があります。
ビンバシャラ王との出会い
お釈迦さまは、修行のためにマカダ国におられた時がありましたが、そこで、ビンバシャラ王とお会いになっています。ビンバシャラ王はその尊崇な姿に驚いて、「自分の家来にならないか」と声をかけます。お釈迦さまは、「自分は王族の生まれです。その身分を捨てて悟りを求めているので、家来にはなれません」と答えました。ビンバシャラ王はその言葉に感動して「それでは、悟りを得たら、私にその法を説いてください」とお願いされました。後にビンバシャラ王はお釈迦さまに帰依し、仏教の外護者となり仏教発展の機動力になっていくのです。苦行林での修行
お釈迦さまは、苦行林で6年間苦行を行いました。その結果、骨と皮ばかりになって、立つこともままならないほど体力が衰えてしまいました。お釈迦さまは、このような体力がない状態では正常な智慧は得られず、とても悟りは開けないと思い、苦行を捨てられます。この際、お釈迦さまには浄飯王の命で五人の比丘が同行しておりましたが、お釈迦さまが苦行を捨てたことで、太子が堕落したと思い、太子のもとを離れ、サルナート(鹿野苑)に去っていきました。(4)成道
然る後、思いなおして、尼連禅(にれぜん)河に沐浴して、身を浄め、村の女が捧ぐる乳がゆを飲んで、気力を回復し、林の北方、伽耶村の、畢波羅(ピッパラ)樹(菩提樹)の下に到り、一人端然として、禅定(静観)に入られた。幾多の悪魔の誘惑を斥け、明けの明星の光ると共に、廓然(かくねん)大悟せられた。斯くて釈尊は、三界有情の大導師、佛陀世尊となり給うた。時に御年三十五歳、十二月八日のことであった。お釈迦さまは、沐浴した際、あまりに体力が無くなり、尼連禅河から這い上がる力もないほどでした。そこにスジャータという娘の施した乳がゆを食して体力を回復できたのでした。
お釈迦さまは、河を渡り、対岸のガヤの町に修行場を造るのでした。農民から干し草をもらい金剛座を設けます。ここは後にブッダガヤとよばれるようになります。悟りを開くまでは、この金剛座を立つまいという尋常ならざる決意をして、坐禅をなされました。
お釈迦さまは、この時、十二因縁の逆観・順観をなされたと言われています。順観をすると未来が、逆観を行うと自分の過去が見えて参ります。お釈迦さまは三明と言って、悟の前に宿命通や他心通などの神足通を獲得したといいます。その神足通で五百生前の姿を見ることが出来たと言われています。
そして、三十五歳の12月8日、明けの明星をみた時、大悟徹底して三界の導師たる仏陀となられたのです。
(5)梵天勧請
成道後、3週間の間、御自身の悟りの境地を楽しまれたと伝えています。そしてこのような高い悟りはとても他の人の分からない境地であろうと、布教をせずに入寂しようと思われました。その時、梵天が現れてお釈迦さまに「どうかあなたが悟られた真理を人々に説いてください」と勧請するのです。ところがお釈迦さまはそれを拒否されました。梵天は「すべての人がその真理を理解しえないとしても、なかにはあなたの心のかなう人がいるでしょう」と再度勧請しました。ところがそれでも拒否されます。三度梵天は「たとえ理解できない人ばかりだとしても、その一部だけでも心に感じるものがあれば、あなたはその真理を人々に語らなければなりません」と。お釈迦さまは、全ての人々の機ざまをご覧になられました。確かになかには少々仏陀の教えを理解できそうな人もいることが感じられました。そこで、梵天勧請に応じられて、菩提樹の座から立ち上がられたのです。
ちなみに、当時、お釈迦さまに物事をお願いする場合、三度お願いして断られた時は、それ以上お願いをしてはいけないという礼儀がありました。逆に三度までならば同じお願いをすることができます。ただ、それでも、同じようにお願いしても答えてくれませんので、言葉を変えてみなお願いするのでした。
(6)初転法輪
お釈迦さまは、悟りの境地を分かってもらう相手として、アラーラ仙人とウッダカ仙人に最初に伝えようとされましたが、二人とも亡くなられたということを知り、次に自分と一緒に苦行林で修行をしていた五比丘に仏教を伝えようと思われました。ブッダガヤからサルナートまでは、200キロの道のりがありましたが、お釈迦さまはサルナートまで歩いていかれました。サルナートでは五比丘が修行をしていました。遠くからお釈迦さまが近づいてくるのが分かりましたが、「あれは堕落したシッダルタだ。来ても無視をしよう」と示し合わせていたのに、お釈迦さまが近づくと誰というでもなく、お釈迦さまを丁寧にお迎えしたのでした。
お釈迦さまは、五比丘に宣言なさいました。「私は仏陀、悟りを得たものである。私は今からあなた方に真理を説こう」と。そして四聖諦の教えを説かれました。四聖諦とは、苦・集・滅・道の四つの真理です。苦諦とは、「人生は苦なり」という真理です。集諦とは、その苦しみのもとは煩悩であること。滅諦は煩悩を断じて本当の涅槃に到着できるということ。道諦はそのための方法です。それは苦行のような極端な行ではないことを懇々と教えられました。それを聞いてまず阿若・憍陳如が悟りを開いたと言われています。お釈迦さまは大層喜ばれました。
そして、この五比丘お釈迦さまに帰依されて、ここにサンガ(僧)が整い、三宝(仏・法・僧)がそろったのでした。
(7)伝道
その後、四十五年間、伝道に従事し、多くの学者達を教え導かれた。お釈迦さまは布教をされるに従い、お弟子や信者が増えていきました。お弟子では、舎利弗、目連を筆頭に十大弟子と言われる方々。まだ信者では、浄飯王をはじめ、マカダ国のビンバシャラ王やコーサラ国の波斯匿王など身分の高い方から、一般の庶民にいたるまで大勢の信者が集まりました。仏典にはお釈迦さまをお会いしただけで心の安らぎを得て、また教えを聞いたものは法眼を開いたと説かれています。
マカダ国では竹林精舎・霊鷲精舎、コーサラ国では祇園精舎、ヴェーサリーの大林精舎など、お釈迦さまに寄進された精舎があって、お釈迦さまはそれらを遊行されて一個所にとどまらず、それらの拠点を廻りながら教えを説いていかれました。
(8)涅槃
漸く涅槃の近づけるを覚り給い、拘尸那掲羅(クシナガラ)城外の娑羅林の双樹の間に床を伸べしめ、最后の教誡を遺し、頭北面西・右脇に臥して、入滅したもうた。時に御年八十歳、西紀前四八六年二月十五日であった。釈尊入滅せらるるや、拘尸那掲羅(クシナガラ)の民族、佛の入涅槃を聞き、来たりて遺骸を城内の天冠寺に移し奉り、供養すること七日、転輪王の法に依りて、荼毘(火葬)に付す。八国の使節、各各舎利を争い、香姓婆羅門の調停によりて、これを八分し婆羅門は舎利瓶を得、孔雀族は遅れて到り、灰燼を得、かくて舎利塔十基、佛有縁の地に建立せられた。お釈迦さまは、御自身の死期を悟られ、涅槃に入ってよいかどうかを阿難に尋ねます。阿難はその時、とっさのことでお釈迦さまにもっと長生きしてくれるように頼みませんでした。そこで、お釈迦さまはご自身の寿命を放棄されたのです。その後に、阿難は、お釈迦さまに一劫の間長生きして欲しいと頼みますが、已に時遅しで、もういかんとも出来ませんでした。それから3ヶ月後にお釈迦さまは亡くなられるのですが、このことを後で阿難の罪として他の弟子たちから責められます。
それから、お釈迦さまは御自身の涅槃の場所を求めて最後の旅に出ました。お釈迦さまは、御自身が最後亡くなられるという時でも、衆生済度の遊行を続けられたのです。途中チュンダから最後の食事の供養を受けますが、お釈迦さまにはその食事を消化する力も残っていませんでした。体を休めながら、クシナガラ郊外の沙羅林に行こうと阿難尊者に声を掛けられて、沙羅林に着かれると沙羅の二つの樹の下に寝床を用意させて、枕を北にして右脇を下にして、獅子が伏すように、右脚の上に左脚を置いて横になりました。
そうしていると、最後の弟子となるスバッダがお釈迦さまを尋ねて参りました。阿難は、お釈迦さまは大層具合が悪く、とてもお取り次ぎが出来る状況ではないと断りますが、スバッダはなんしても一目でも遇わせて欲しいと懇願します。その話を聞いておられたお釈迦さまは、阿難に「スバッダをここに通しなさい」と声を掛けられます。お釈迦さまはスバッダに八正道と四向四果(道の人)について説明されました。そして次のように生涯を振り返ります。「スバッダよ、わたしは二十九歳で、善を求めて出家した。スバッダよ、わたしは出家してから五十年余となった。その間、正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には道の人は存在しない」と。
それから、お釈迦さまは最後の教誡を残されます。「生老病死の大海に没在せるものよ、自らの智慧の明かりを以てこの大海を渡れ、無常は迅速である。不放逸に求めよ」と。そして「自灯明、法灯明」ということを教えられます。
お釈迦さまは阿難尊者に仰いました。「阿難よ、現在比丘達は、友よとお互いに呼び合っているが、私が亡くなってからは、そのようではいけない。先輩の比丘は後輩の比丘を姓か名で、または友よと呼んでよいが、後輩は先輩に対して、尊師よ、または尊者よとよばなければならない。また、私が亡くなったら、阿難は摩訶迦葉を師匠としなさい」と。そうして、阿難尊者は、摩訶迦葉尊者のお弟子になります。お釈迦さまの次を継がれるのが摩訶迦葉尊者で、阿難尊者は、その次に法灯を継がれたのです。
出家時にお伴した車匿(チャンダカ)は、その後、お釈迦さまの弟子になりますが、素行が悪く問題が多かったため、お釈迦さまはご自身の死後に、車匿に対して、弟子たちに徹底的に無視するように言いつけられました。この罪果によって車匿は大層苦しみ、車匿は心を入れ替えて修行に励み、阿羅漢果を得たと言われています。
(9)釈尊滅後の仏教
釈尊一代の教説は、滅後四箇月、王舎城七葉窟に於ける第一結集を初め前後四回の結集を経て大輯せられた。『南伝大蔵経』(六十巻、南方仏教)、印度、西域、諸国語の経典となって、現在に伝えられている。東洋は固より、西欧諸国にも伝えられて、人類を裨益しておる。お釈迦さまは荼毘に付されましたが、摩訶迦葉尊者が戻るまで火がつかなかったといいます。
その後、摩訶迦葉尊者の提案で仏典結集が行われました。摩訶迦葉尊者は、お釈迦さまの具合が悪いという話を聞いて、お釈迦さまにお会いするために旅をしていたところ、途中、お釈迦さまが亡くなれたことを聞きました。その時、一緒にいた比丘が「これでやかましく言う人がいなくなった」と独り言したのを聞いて、このまま放置していたら、仏教が滅んでしまうと思われ、仏典結集を思い立ったといいます。
第一回の仏典結集は王舎城郊外の洞窟で行われました。五百人の阿羅漢が集まったと言われています。阿難尊者は仏典結集に一番ふさわしい人でありましたが、まだ阿羅漢果を開いておらず、参加資格がありませんでした。阿難は大層反省し修行して、仏典結集が行われる日の朝、ようやく阿羅漢の悟りを開いて、大急ぎで仏典結集が行われる会場に出向きます。そして、「私はようやく阿羅漢の悟りを開いたので会場に入れてください」とお願いします。すると摩訶迦葉尊者は、「それならば、その洞窟の石の扉を開けないままで中に入ってきなさい。阿羅漢ならば出来るはずだ。」と言われて、その通りに中に入って、仏典結集に参加したといいます。
老比丘尼と阿羅漢を開いた比丘
お釈迦さまが亡くなられて、半世紀ほど経って、阿羅漢を開いた若い比丘がお釈迦さま時代から健在であった老比丘尼を訪ねていきました。ところが戸をゆっくり開けるべきところを勢いよく開けてしまい、そばに置いてあった油の瓶を倒してしまいました。それを見られた老比丘尼は申しました。「お釈迦さま時代に提婆達多などの六人の悪人がいましたが、その人達でさえ、あなたのような礼儀を欠くことはしませんでした」と。五十年ほどの時の経過で大層根気が衰えたことを伝える一節です。また、提婆達多のような方を今日の常識の中の悪人と同列に思うことも誤りだと知らされます。
アショーカ王と老婆
アショーカ王はお釈迦さまが亡くなられてから百年ほどたって生まれた人で、お釈迦さまの遺跡を巡られて碑を立てたり、仏教を外護された方ですが、ある時、お釈迦さまに会ったことがあるという長生きをされていた老婆にお釈迦さまについて話を聞きにいかれます。老婆は申しました。「私がお釈迦さまを見たのは三歳のことでした。お釈迦さまのお顔はハッキリ覚えていませんが、お釈迦さまが歩いた足跡が、王冠のように光の輪で輝いていたのを覚えています」と。
私の先生が増谷文雄さんの話をよくされましたが「心の時代」というテレビ番組で、アナウンサーに「お釈迦さまは、どのよな方ですか」と聞かれて「お釈迦さまは、仏陀です」と答えられたと。この老婆の話は、お釈迦さまが正しく仏陀であったことを伝える一節だと思います。
法顕や玄奘三蔵の涙
法顕や玄奘三蔵は大変苦労して中国からインドに行かれた方です。どちらも旅行記が残っていますので、当時のインドの様子を知ることができます。二人ともお釈迦さまのお墓である仏塔の前ではらはらと泣かれるのですが、そのお気持ちが想像が出来るでしょうか。玄奘の旅行記の解説には、あまりにその塔がみすぼらしかったから泣かれたと書いてありました。果たしてそうでしょうか。現在は物質的に大層恵まれているために、お釈迦さま時代を古く未開な時代で、自分達の方が境遇が勝れているように思いがちですが、私達はアシダ仙人の涙と同じく仏前仏後の難の中にいるものです。お釈迦さまにお会いできないというのは、それだけ不徳であったということでしょう。今はお釈迦さまの時代から二千五百年も時代が経ち、お釈迦さまの勧化力は衰えてしまい、私達にはなかなか力が及んでまいりません。そのため、お釈迦さまの遺教をたどって悟りを得るというのは大変難しい状況です。
しかし、幸いなことに、私達は親鸞聖人の御教えに会うことが出来ています。末代の我々には、無相好の仏が出られて私達をお救いになると『心地観経』の中に説かれています。私達は、凡夫が「不断煩悩得涅槃分」というとても仏教常識を超越した教えにお会い出来ているわけで、それを改めて喜ばずにおれません。