今の仏教会の問題点
2020/03/29
ここには、私が今理解している現代の日本仏教会の問題点について書いておきます。これらについては、今後仏教を真剣に求めるもの、教えるものの課題となることでしょう。
瑞剱先生の時代には、大乗非仏説が問題になりました。特に浄土真宗の布教使の人は、このために、信心がぐらぐらになりました。瑞剱先生は、大乗非仏説を説いた人を全てリストアップしたと言われています。
私の先生は、瑞剱先生の教えをひたすら勉強された方なので、現代の教学の問題点についてはそれほど明確に理解されていないようでした。
私は現代の仏教会の問題点にかなりぶち当たりました。特に原始仏教学者の仏教学問態度には腹立たしいものも感じました。ある学者は仏教はロマンだと言っていました。
インドは熱帯地方だったこともあり、文字で書いた歴史書など全く残っていません。また、インド特有の文化がそれを追い打ちしました。その文化とは、あまりに頭が良く、文字で書かずに記憶するという文化です。特に神聖なものは、文字にすることを嫌いました。ですから、仏典はお釈迦様生前には編纂されず、かなり後になってから文字化されることになりました。
パーリ語が当時のお釈迦様の言葉に近いとは言われますが、実際はマカダ語で、パーリ語とも違います。そういう意味で、お釈迦様の徳音は遙か昔の歴史の中で今それをそのまま聞くことも出来ない状況なのです。
歴史学に乏しいというのは、また、歴史的なものもその歴史を解明することが難しい現状があります。他国の歴史に照らし合わせて年代を照合するのがやっとの状況です。ですからお釈迦様の生誕年月もハッキリと分かり無い状況なのです。
このような中では、逆に何でも言える土壌があるわけで、少しでももっともらしい内容を権威のある人が言えば、定説になりうるわけです。
中村元さんが唱えた内容も現代人に聞こえがよく定説とされましたが、中村さんが死なれてから、今はこれに異を唱えるひとが増えてきました。
しかし、現在の仏教会の栄誉ぼどバカらしいものはありません。その学者が生きている間は、皆遠慮して文句を言わないですけども、といいますか、文句を言えば出世できないですから、ところが、亡くなられたら、容赦なくて、定説がどんどん覆るわけです。
しかし、明治維新は日本の仏教にとってはマイナス面が大きかったと言えるでしょう。ここまで、仏教をゆがめて受け取めてしまったのは、仏教学問の西洋化が一つの原因だったとは思いますが、仏教国でこのような教え方をするのは日本だけです。
今はダライラマなどの公演も日本で行われ、チベット仏教の勉強も手軽に行えるようになりました。そういう中で日本仏教の異質性について気がつく人は多いと思います。
大乗非仏説について今はどういう風に言われているかといいますと、大乗非仏説の主意は、大乗仏典はお釈迦様死後500年ほど後に出てきた教えであり、仏説ではないというものですが、今はあまり問題になっていません。 というのは、原始仏教というか、小乗仏教の経典もお釈迦様の生前に書かれたものはなく、そういう意味では位置づけ的には一緒であり、後先の問題でしかないからです。 ですから、今はこれは、学会では問題になっていません。 今仏教会で平然と問題視されるのは次の問題でしょう。
- 輪廻転生を認めないまた神通力を認めない
- 如来蔵思想を認めない
はじめは、中村元さんを主とする原始仏教学者の説です。これらは定説になっていますが、中村元さんが亡くなられて見直しが起きています。
2つ目は、松本史朗さんが提唱した説で、今の如来蔵研究学者は皆同様の考え方を持っています。
特に2番目の問題は、日本の仏教にはダメージが大きいです。日本仏教は全て如来蔵思想がベースだからです。この学説がかなり浸透しているのが大谷派でして、大谷派の教科書には、如来蔵思想は仏教ではないと書いていながら、仏性説は通常の仏教として取り上げているそうで、なんというかめちゃくちゃな内容です。
浄土真宗では次のような問題があります。
- 信心に問題があるとして念仏ばかりを説く
- 聞思して遅慮するなを努力を否定する
- 無宿善往生を説く
一つ目の、念仏を説くのは、信心に力拳が入ってしまうためだといいますが、浄土真宗は信心を教えられた宗旨なので、それで信心を説かないのは浄土真宗と言われないのではという疑問を感じます。
2つ目は禅宗にも同様の問題がありますが、結局、究極の悟りを適時するのみで、その仮定での分別を嫌うというものです。
3つ目は、覚如上人批判が教義にも浸透して、無宿善往生を平気で唱える人が増えました。ググっても数件出てきます。これは無信心がいたすところでしょうか。
これらについて、まとめて行きたいと思います。 個人的にそれ以外に問題だと思うことをいくつか書いておきます