良寛さんの良寛さんたるところ
2017/02/28
良寛さんはとても変わった禅僧だったため、その理解も色々のようです。また、真宗関係の歌も作られていることから、浄土真宗の妙好人と理解されたりすることもあるようです。
一度先生は瑞剱先生に良寛さんについて「良寛さんは妙好人ですか?」と聞かれたことがあるそうです。
そうしたら、瑞剱先生は、良寛さんの良寛さんたるところを知るには、と前置きした上で、人間はどんなにごまかしてもごまかせない、嘘のつけないところがある。そこを見て人間を評価しないと駄目だと話しをなされたそうです。
ごまかしがきかないのは泣いたところで、それには悲しい時と喜んだ時[1]忘れられない時として、これに恨んだ時を入れて平家物語では語られているらしいですがあるというのです。
親鸞聖人の三哉文(誠哉、慶哉、悲哉)が有名です。
【誠哉】
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。『教行信証総序』【慶哉】
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。『教行信証総序』慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。『教行信証後序』
【悲哉】
まことに知んぬ、悲しきかなや愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず、恥べし、傷むべし。『教行信証信巻末』悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みずから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ一切聖人、一切善人、本願の嘉号をもっておのれが善根とするがゆゑに、信を生じることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑに、報土に入ること無きなり。『教行信証化身土巻』
親鸞聖人が懺悔し、また歓喜しておられるわけですね。このように正直に自分の心を出しておられるところです。だから皆が注目するのです。
良寛さんが泣かれたのはどういう時だったでしょうか。
良寛さんには色々な話しが残っていますが、こんな話しがあるそうです。
ある時、良寛さんを尋ねて行った人が、良寛さんが正法眼蔵を虫干ししているのを見て、どうしたんですかと尋ねたところ、良寛さんは「いや~、昨晩大雨が降ってな~」と答えたそうです。昨晩は雨が無かったので、聞いた人はきょとんとしていたのですが、大雨とは良寛さんの涙だったようなのです。つまり、虫干ししなければならない程涙を流したわけで、正法眼蔵を拝読して感激して泣かれたということです。
良寛さんは曹洞宗の方でありましたから、正法眼蔵を拝読されていても不思議ではありません。ただ、この本の難解さと来たら、他のお聖教と比べられないほどです。これを拝読して大雨という程涙が出るというのはまるで“化け物だ”と瑞剱先生は言われたそうです。「ワシも若い時から正法眼蔵を読んでおるが、本当に分かったというところは八十くらいの時だ。それがこれを読んで涙を流すなんて考えられない。」
ここから推察するに、良寛さんは大変高い悟りを開いた方で、あのユーモアな振る舞いは、良寛さんの遊戯三昧での行為であったと考えるべきだし、真宗信者のような歌は、良寛さんの晩年に、良寛さんの面倒を見た尼さんが浄土真宗の出であったので、その尼さんに合わせて歌を歌ったまでだ
と教えて下さったそうです。
私たちは、良寛さんを愚鈍な方のように思いがちですが、とんでもない間違いなのかもしれません。
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脚注
↑1 | 忘れられない時として、これに恨んだ時を入れて平家物語では語られているらしいです |