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律宗中興の元照律師の死に臨んでの懺悔のことば

      2017/03/03


 これも『前田慧雲師語録』からの抜粋です。

 律宗の中興といわれる、元照律師[1]教行信証に元照律師の書かれた観経疏が引かれている。というお方はえらい人であったが、その人の作られた詩がある。これは、ご自身が実際経験の上から言われたことであろうと思う。

聴教参禅逐外尋  未曾回首一沈吟
眼光将落前程暗  始識平生錯用心

聴教参禅外を逐うて尋ぬ     未だ曾て首を回して一たびも沈吟せず
眼光将に落ちんとして前程暗し 始めて識る、平生の用心の錯れることを

 これまで教えも聞いてみた、坐禅もやってみたけれども、どういう心で講釈を聞き坐禅をしたかというと、それで自身が学者になろう、えらい人になろうという心でやったのである。未だ曾て一度も首を捻って、自身の未来はどうであろうか、自身の行く先はどうであろうかというようなことを考えたことはなかった。然るに今度病気になってお医者さんから手を離されて、もう今息が切れるという時になって、さて行く先はどうであるかと思うて見ると闇黒くらやみ、ここに至って平生自身が心得違いをしておったことが分かった。これまで講釈を聞いたり参禅したりしたのは、偉い者になろう、評判を取ろうという為で、真に自身の行き先の為にしたのではなかった。これでは講釈を聞いたことも、坐禅をしたことも何にもならぬ。さて今出掛けて行くということになると前程暗し、何処に行くやらさっぱり訳が分からぬ。ここに至って平生のことを悔やんでも追いつかない次第である。どうして平生それを心に用いなかったであろうと、悔やんでも仕方がないという詩である。

 実際そんなものである。平生は気張ってみるけれども、そういう時に至ってみると、心にきまりがなければうろつかなければならぬ。死んだらどうにかなると、大ざっぱな心を持っていると、今死んで行くという時になって迷うて見たり、後悔をして見たりしなければならぬ。その結果狂い死をする様なことがあっては、実に残念至極と言わなければならない。平生から自身の落ちつき場をこしらえて置くということは極大切なことである。


脚注

1 教行信証に元照律師の書かれた観経疏が引かれている。

 - 浄土真宗