我々の根は22根である
2017/02/28
倶舎論を勉強していますが、我々の根を22根と定めています。その中で、我々の身体については、五根(眼・耳・鼻・舌・身)、男・女根という七根に限定しています。
これについて、外道の人が、我々は口で言葉をしゃべるしは、手や足もある、肛門から排便をする。これらを根に含めないのはおかしいと非難しています。
一見、もっともな批判です。
私は、以前、ソフトウェアのデータベース周りの開発をしていたことがあります。データベース構築には、概念モデルというものを作成し、その事象を正しくとらえる作業をします。
たとえば、会社と従業員というものをデータベースに格納する場合、会社と従業員は1対多の関係にあると理解しますね。ところが、ある従業員は他の会社にも所属しているような場合、これは多対多の関係になります。1対多の関係だけでデータベースを構築してしまうと、このような変則的な関係をデータベースに格納できなくなるのです。ですから、しっかりと関係についても把握する必要があります。そのために、そのモデルを正確に理解していく必要があるのです。
普通に考えると、人間には頭・顔・首・身体があり、頭には髪の毛があり、顔には眼・鼻・口・耳があり、口には舌があり・声も出る、身体には胴・手・尻・足があり・・・などと考えていくと思います。ですから、この外道の批判はもっともだと思ったりします。
ところが、仏教では、声について、また、手足や肛門などは根に含めません。
実は、その根をもとに識が特別に生成されるかどうかというのが根を区別する原点になるのです。
声を発生するというのは特に特別な心の受容があるわけではありません。意識の働きの一部になるわけです。手足も同様です。手足から特別に心が受容されるわけではありません。
仏教ではこういう分析をしっかりして、22根が定められたわけです。